11−3.柏原の建物

  平成10年から13年にかけて柏原区内の家屋・土蔵・ハギ屋・水車跡について委員会で調査をしました。特に昔の様式を残す建物が姿を消しつつありますので現在の様子をまとめてみました。

11−3−1.母屋

T調査対象

  平成11年現在で、土蔵のみ残っている家屋敷を含め、160戸を調べた。そのうちで5戸は母屋が取り壊されており、母屋としては155戸である。

  155戸の内訳は次のようである。
 ・昔の様子の残る家 66戸(内特に様子が残る家17戸)
 ・大改修されている家 3戸
 ・昭和20年以後新築 86戸(内昭和中期建築の旧様式の家20戸)

  昭和末期より平成にかけて新しい様式の家に建て替えた家が多く、昔の様子を残している家は全体の約4割程度である。

  また、外形は昔の様子を残しているが、馬屋・土間などを改造して、台所・居間・浴室等にしている家が多く見られ、馬屋などを残している家はごく少なくなっている。

 U昔の様子を残している家(66戸)の内容

1.家の形態

平屋 39
一部二階 17
総二階
萱屋様式


  柏原の家屋は、平屋作りが多く、一部二階の家も二階建てではなく、入母屋造り(コビラオリ)の家やカド口の側を入母屋造り風にした家であり、いわゆる中二階造りである。
  総二階は、一階・二階の広さがほぼ同じで、完全な二階造りである。
  萱屋様式は、萱葺きの上にトタンや瓦で葎った家が多く、萱葺きの家は二戸だけである。

 2.屋根の形態

切妻 23
入母屋切妻 22
入母屋 11
総二階入母屋
萱屋様式


  柏原の家屋は、江戸より明治時代にかけては萱屋が主であったと思われるが、その後の改築時に現在見られるような形態となったものと思われる。屋根の形態は切り妻が主であり、カド口(馬屋口)の位置により広い軒を得る為に入母屋風にしたり、軒をつけた家が多く見られる。入母屋造り11戸の内完全な様式(コピラオリ)をしているのは5戸である。(守矢奥次、篠原寿久、両角道子、篠原英子、両角さくえ)
  また、この地方(山浦地方)では、大軒造りという独特の軒の構造の家が多く、軒の長さが一間から二間という長い軒を持っている。

 3.屋根の材料形態

トタン 42
トタン上にストレート 12
カワラかスレート
トタンがけ萱


  昭和20年代までは、板葺きの屋根が多く見られたが、屋根の葺き替えの手間、屋根板の調達等の理由によりトタン屋根が多くなった。その後スレートやカワラの品質の向上により、また、トタン広張り屋根の構造上の問題等により、トタンの上にスレートを置く方法や、カワラやスレートを屋根材とするようになった。また、トタンも長尺トタンを用いるようになった。

☆板葺き屋根

  屋根板は、この地方では栗木を用いた。(場所によっては彬・サワラなどを用いている。)30cm〜40cm位の太い栗木を山より切出し、長さ1尺5寸(45cm)に切り、それを厚さ2分〜3分(6〜9mm)巾は3寸〜4寸(9〜12cm)位の板に割って用いた。この板を作るのは難しく「板へぎ」と呼ばれる職人が、各家々を数日づつ廻って屋根板作りをした。屋根は 3年に1度くらいの割合で葺き替えをすると、雨漏りも少なく、屋根板も長持ちしたようだ。良い板は表裏上下と4回は最低でも利用できるので、1枚の板は10年から15年位は利用できた。
  屋根葺きの時は屋根板を全部屋根よりはずし、使用できる板と出来ない板とに分け、新しい板を追加して屋根板を雨漏りがしないよう並べていくのである。これを「屋根葺き」といった。この作業は天候に左右され時間のかかる仕事であるので、数軒の家で「ゆい」をして行うことが多かった。屋根を押さえるため、杉・サワラなどを長さ 2間位の長さに細かく割り、その棒を頭大の石で押さえた。いわゆる石置き屋根である。中には諏訪特産の鉄平石を45×60cm位の板にして、板を葺く時、数列ごとに葺きこむ家もあった。

☆石葺き屋根

  鉄平石を1尺2寸(36cm)角の正方形にして、これを並べる家もあったが、石のため、屋根が重くなる等問題も多くあり、あまり利用されなかったが、土蔵の屋根には多く見られ、現在でも残っている蔵がある。

4.入口

 馬入口(カド口)と土間口(セド口)

妻入  平入 55
妻入  妻入
平入  妻入
平入  平入
妻入


  カド口は妻入が大部分(57)でセド口は平入りが主(60)である。カド口は妻入、セド口は平入が柏原の家屋の作りからは基本であると思われるが、家の敷地の形、道
 との関係などによりその家に合った入口が設けられたものと思われる。

 5.家の大きさ(間口と奥行)

  家の大きさは、その家の立地条件により決められるが、一般には萱屋様式では方形に近く、板屋根の家は長方形の家が多く見られ る。入母屋作りは大きめな方形をしている家が多く見られる。

5×5 7×5 7.5×6.5 8.5×6
5×7 7×5.5 8×4.5 9×5.5
6×4 7×6 8×5 9×6
6×5.5 7.5×4 8×5.5
6.5×4.5 7.5×5 10 8.5×4.5
6.5×5 7.5×5.5 8.5×5
7×4.5 7.5×6 8.5×5.5

  間口は、5間〜9.5間と大きな違いがあるが、奥行は5間〜6.5間とその差が少ない。一般的には間口は7間〜8.5間、奥行は5間〜5.5間の家が多く見られる。

6.家の間取り

  家の間取りには多少の違いはあるが、基本的には1図の形式が多地域の母屋の特色として、馬屋が人の住居と一体となっていることである。これは馬を大切にした証であり、家族の一員とみなされていたものと思われる。また、土地が狭く、冬寒いこの地では、馬屋を別に建てるより、この方が合理的な建て方ではなかったかとも思われる。
  次に切り妻、入母屋、萱葺きの家の間取りの一例をあげてみた。

3図

11−3−2.土蔵

T調査対象
160戸 土蔵119戸

  母屋が取り壊されているが、土蔵のみ残っているものも調査の対象とした。また、一軒の家で土蔵が2つある家もあったがそれぞれの数に入れてある。

U土蔵の作り

1.かべの作り

土壁 56
白壁 51 下のほうを板で囲み化粧塗りのある物を含む
板壁 12 内オトシ8、セイロ3、他1

  壁の作りは土壁が基本である。5〜6cm(約2寸)の厚い板をオトシ(落とし壁:柱に溝を切り上から落として入れる組み方)かセイロ(井籠組:せいろうぐみ:木材を井桁(いげた)に重ね合わせてつくった壁、またはその組み方。校倉(あぜくら)・板倉などの類。)のどちらかの組み方で基礎となる板壁を作り、その板に小さな竹又は木の楔を多数打ちこみ、その上に土壁を厚く塗りつけていく。このままでおく と土壁となる。
  この土壁の上に漆くいなどの白い土を塗り重ねると白壁になる。白壁にするには金もかかるので、土壁のままにしておくことも多かった。
  また、白壁の下側3分の2くらいまでナマコ壁の化粧をすることもあったが、お金がかさむので多くは作られなかった。現在もナマコ壁を残している土蔵が2つほど見られる。
  ナマコ壁の代りに化粧セメントで白壁の土に化粧壁を施している土蔵も7つほど見られる。
  白壁の保護のために、焼板で鎧下見をつけた土蔵も7つほどあった。
  現在板壁となっている中には、かつて土壁や白壁であったが、長年の雨風のために落ちてしまい、芯になっていた板が出てきていると思われるものが数多く見られた。

2.屋根材料

平石
トタン 65
トタン上にスレート
スレートかカワラ 46
平石にトタン


  昔は平石、板葺きが多かったが母屋と同じ理由で現在のようになつた。しかし、平石葺きが残っているのは母屋に比べて屋根が小さいからであろう。

3.蔵の大きさ

間口 奥行 戸数 間口 奥行 戸数 間口 奥行 戸数
2×1 3×1.5 4×2
2×2 12 3×2 44 4.5×2
2.5×1.5 3×2.5
2.5×2 44 3.5×2
3.5×2.5


  蔵の大きさは、間口2〜4.5間、奥行き1〜2.5間とさまざまであるが、2.5×2間及び3×2間が最も多く、この地方の基本形であると思われる。間口の大きい蔵の3つは、入口が2つある2連の蔵である。 蔵の中は、普通半二階になっており、一階は籾や玄米などを入れる「ブンコ」となっており、二階は常使わない家具や大事な物品の納め場所として使えるように作られている。

4.みそ蔵

みそ蔵 112(みそ蔵が2つある蔵もある
みそ蔵なし土蔵

  みそ蔵は本蔵の軒下に1間×1間か1間×1.5間ほどの小さな作りの物が多く、壁は土壁がおもであり、白壁はあまり多くない。
  昔は、各家庭で「みそ」を作っており、みそをおいしく食べるには一年以上寝かせておく必要があった。それで4斗樽や2俵ぶちの樽など、大きな樽を長期間置く場所が必要であり、温度の変化の少ない厚い土壁で覆われたみそ蔵が作られた。
  各家庭では2〜3年みそを食べられるよう多くのみそを作り、それを貯蔵したものである。

11−3−3.ハギ屋

1.調査対象

  柏原では、昭和中期まで各家で農耕用として馬や牛を飼っていた。その馬や牛の冬期間の餌として多量のハギを貯蔵しておく必要があった。また、稲わらも馬や牛の餌として、わら細工の材料として保存した。その貯蔵施設として、ほとんどの家でハギ屋を持っていた。
  しかし、昭和中期より農業用の機械が出まわるようになると、馬や牛もその役目を終え、姿を消していった。  そのためにハギ屋の必要性も薄れ、物置として利用されたが、萱葺き屋根の老朽化と、萱葺き屋根の葺き替えが困難となり、年々その数も少なくなってきている。
 そこで、両角正作氏、故両角邦夫氏が遺跡保存会に昭和中期に確認できたハギ屋の所在地を地図に記入していただいたものを基に平成11年に実地調査を行った。
  しかし圃場整備のために多くのハギ屋が取り壊された。又、地形も変化しているが、昔の様子を残すために圃場整備以前の位置で場所を示すことにした。

調査対象件数79件

2.現存しているハギ屋

カヤ屋根
屋根改良 16
改築
トタン屋根
物置小屋


  現在も萱葺き屋根のハギ屋が7戸残っているので、今後も大切にしたいものである。多くの屋根はトタン屋根に改良され、ほとんどが物置として利用されている。トタン屋根は切妻造りが多く、寄棟造りはほんの2〜3軒である。ハギ屋と馬屋とが1体になつている家があったが、昭和初期に改築されたものであり、当初よりトタン葺きで作られたそうである。また、当初より物置として建てられたものが3戸あったが、ハギ屋として図に示されていたので調査対象に加えてある。

3.圃場整備により移転したハギ屋

他地へ物置として移転改新築
取り壊した


  移転したハギ屋は物置として建てられ、萱葺きは姿を消した。

4.広さ

4×3 3×2.5
3.5×2.5 3×2
3×3.5 2×2
3×3 (単位 間)


  広さは、4間から2間で正方形に近い形になるように、間口と奥行きが決められている。4×3、3×3、3×2.5、3×2の広さが多く見られる。

5.現存していないハギ屋

敷地が確認できた4ヵ所の内、3ヵ所は物置等が新築されている。敷地なしの場所は現在は、畑、他、宅地の一部になっているところが多い。

11−3−4.車屋(水車屋)

  柏原には、昭和初期まで精米用やわら叩き用の水車が区内の川筋に多く点在していた。しかし、昭和に入り電気動力による精米ができるようになると順次その姿を消し、昭和20年代にはわら叩き用の水車がわずかに残るのみとなり、わら細工(縄・米俵・草履など)の必要性がなくなると、水車は全くなくなってしまった。
  そこで、遺跡保存会委員であった、両角正作氏と故両角邦夫氏に昔の記憶をたどり、平成5年に車屋の所在地跡を地図に記入していただいた。
  その地図を基に、平成12年に所在地やその跡の確認を委員会により行った。
  その結果、区内を流れる汐からは多くの所在を確認することができた。しかし、音無川は圃場整備及び国道バイパス工事により大改修がなされ、全くかつての川が形を変えてしまい、車屋跡を確認することが不可能となった。そこで、旧川筋の地図と当時を知る人々に聞き取りを行い、その存在を確認することにした。また、持栗川についてもかつてあった段差は改修によりその姿を見るところができなかった。
  調査の結果、52ヵ所について確認できた。今後の聞き取りにより、もっと数が増えるものと思われる。

  水車屋跡の中で、かつての車屋を現在物置や補助蔵として使用している No.25、26の2ヶ所があり、No.27は水車屋の跡に物置を作って利用している。また、石臼などが残っている No.13、21が確認できた。No.18は車屋の礎石を見ることができた。また、水車の滝の痕跡をNo.9、11に見ることができた。
  車屋の大きさは仕事の内容により様々であるが、大きな水車を用いたわら叩き用(No.20、30、52)やもみすり・精米・精粉など多用に使用した水車(No.25、26、43)などである。また、比較的大きな水車は精米や精粉やわら叩きなどをした水車である。しかし、現在ではその大きさを正確に知ることはできない。多くは精米を主とする水車が多かったと思われる。

  水車の所在を川筋別に見ると次の様である。

音無川水系 16 宮の木堰
持栗川水系 中堰
外山堰 空洞ノ木堰
中川堰 16 越道西堰
戸尻川


  水量の多い音無川・持栗川水系には比較的大型の車屋があったようである。
  当区では各河川の水量も常時一定した水量を持ち、傾斜もあったことから、水車は車輪の下方に水を当てる方法が取られた。(水量の少ない地域では、水車の上方より水を流す方法や、大きな川の流れを利用する地域では、水車の下方と川の巾に入れて廻す所もある。)

車屋について

  この地方では、水車屋のことを「車屋」と呼んでいた。車屋は生活のためになくてはならないものであった。毎日の主食である米を精米する唯一の道具であり、また、各仕事の大事な「わら細工」をするときのわらを叩くにも車屋を利用した。
  車屋は一軒で所有していた家もあったが、多くは数軒で仲間を作り、1ヶ所の車屋を利用した。この場合、仲間(組)内で世話番(管理当番)を作り、車屋を利用する順番を決めたり、車屋の管理をした。組下の各家は車屋の入口のかぎを持ち、決められた順番にしたがって利用をした。白米が不足したときなどは他の家に順番を変えてもらった事もあったようだ。
  米搗きは女衆の仕事の一つでもあった。一回につく米の量は1斗(15kg)であるが、時にはそれ以上、以下のときもあった。玄米を朝車屋の臼にはり(入れる)、夕方あげる(出来た白米を取り出す。)約12時間前後の時間を必要とした。時には夜米をはる事もあったが、米搗きの音が近所の迷惑になるのでなるべくさけるようにした。また、夜はると他人に上げられる(米泥棒)にあう恐れもあった。

車屋あげ(米泥棒)(条一氏の話)

  16歳か17歳の頃であったが、祖母に頼まれて柳淵にある車屋に米をあげに行った。途中まで行く とカーンカーンと言う音が車屋の方から聞こえてきた。「これはやられた」(車屋あげにあった)と思い、恐る恐る車屋に近づいてみると鍵は開けられ、米は盗まれ。少し残った米は粉になり、杵が石臼をカンカンと叩いていた。こんな事を二度経験している。
  米をはる時は、玄米を臼に入れ、杵の落ちる位置にあわせ「わて」を置き、杵の落ち具合を見てから水車を廻した

「わて」

  縄で杵より少し大きめの輪を作り、15cmくらいまで積み重ね、わらで編んで管状に作る。
  わての高さは2〜3種類あり、はる米の量により使い分けた。
  わてを長く使うとこぬかがつくので時折こぬかをふるい落として使いやすくした。
  「わて」の中に杵が落ちるので米が少しづつ「わて」の中に入り、順次にこめがつけていく。

  水車を廻す水量の調節が大切であり、多いと早く廻りすぎるし、少ないと遅く、米がつけるまでに時間もかかり、米のつき具合が違つてくる。特に大川筋(持栗・音無川)にある水車は車屋汐も大きく、水量も多いので調節が難しかったようである。雨降りの後の増水時は大川の水量が多く、女衆には大変きつい仕事であった。逆に水量の少ないときなどは汐を取り入れている大川まで行ってかきあげ(川をたたえ水量を増す)をしなければならなかった。
  また、重い米を背負って、車屋 の細い急な沢道を行き来するのも冬などは大変であった。
  ついた米は家に持ち帰り、「米通し」に2回ほどかけると、こぬかが落ち、きれいな米となったが、今の白米の8分づきくらいであり、こぬかも充分落ちていないので米を洗うのが大変であった。
  車屋は米つき用が主であるが、中には「粉ひき」をそなえた車屋もあった。大川筋の車屋には米つきとわらたたきの両方をそなえた水車もあった。また、わらたたき専用の大型水車を数軒で組を作り持っていった。
  米つき用の車屋は一本の杵を石臼へ落とすように作られていた。太さ15cm前後、長さ 2m前後の杵を水車の心棒につけられたはねで45cm く らい持ち上げて落とすようになっている。心棒にははねが 4つあり、水車が1回転で 4回の杵が落ちるようになっていた。杵は相当重く、女衆が持ち上げるのは大変であった。
  わらたたき用の杵は直径20cm、長さ3m前後あり、2連になっていた。これを水車の心棒に付けられた羽で持ち上げ落とすようになっていた。はねは 2枚あり、2つの杵が交互に落ちるようになっていた。この杵を持ち上げるのは男でも本気にならなければ持ち上げる事はできなかった。

  わらたたきの車屋は杵が大きく重いので、その震動で屋根の萱がずり落ちる事もあった。
  わらたたきは難しく、わらのしめらせ方、束ね方がきちんと出来ていないと叩いている内に束が屑になったり、穂先が飛んでしまい、使い物にならなくなってしまう。手回しよく一応に叩かせ、元は多く、穂先は少なく叩かせるこつをつかむまで時間がかかった。時には手をたたくような怪我をすることもあった。
  水車屋の利用は昼間のみで、夜間は音がうるさいので利用しないのがきまりであったが、夜間利用する人があり、音がうるさくて眠られず、迷惑をされたこともあったようである。
  車屋普請(車屋を作る)は特殊な仕事であり、専門の大工でないとできないので大変お金がかかった。昭和10年頃、1日日当50銭のとき、80円もの大変なお金がかかった。(160 日分日当、約半年分)
  昭和に入り、動力精米機が区内に出来ると、米つきの車屋は姿を消し、わらたたき用が少し残ったが、わら細工をしなくなるとこれもなくなってしまった。

  車屋については区のお年寄(明夫、奥次、袈裟記、磯夫、一登、条一、豊晴)の方々より車屋についての思い出を話していただいた物をまとめました。

水車屋調査

番号 水 路 名 記  事
空洞ノ木汐  
空洞ノ木汐  
越道西汐   水路改修
越道西汐   水路改修
越道西汐   水路改修
中川汐  
中川汐  
中川汐  
中川汐 滝の痕跡
10 中川汐  
11 中川汐 滝の痕跡
12 中川汐  
13 空洞ノ木汐 水車屋跡確認 石臼あり
14 中川汐  
15 中川汐  
16 中川汐  
17 中川汐 水車屋跡石台確認
18 中川汐 水車屋跡確認
19 中川汐  
20 外山汐 わら叩き用
21 持栗川 水車屋跡確認 石臼あり
22 持栗川  
23 中汐 発電用
24 中汐  
25 持栗川 水車屋あり 現在補助蔵として使用 米籾
26 持栗川 水車屋あり 現在物置として使用 米籾 粉
27 中汐  
28 音無川   河川改良
29 音無川   河川改良
30 音無川 わら専用 共同 河川改良
31 音無川   河川改良
32 戸尻川   水路改修
33 持栗川  
34 音無川   河川改良
35 音無川   河川改良
36 宮の木汐  
37 宮の木汐 米 わら
38 中川汐  
39 音無川 米 わら 河川改良
40 音無川 米 わら 河川改良
41 音無川 河川改良
42 宮の木汐 米 粉 わら
43 音無川 米専用、大きな水車、臼も大きい 河川改良
44 音無川 米 わら 河川改良
45 中川汐 発電用
46 音無川 米 わら 共同 河川改良
47 音無川 米 粉 わら 共同 河川改良
48 宮の木汐 米 わら 共同
49 音無川 米 わら 共同 河川改良
50 音無川 米 わら 共同 河川改良
51 中川汐  
52 音無川 わら専用 共同 河川改良