11−4.柏原の用水路(圃場整備以前)

  柏原の農地は圃場整備により一変し、かつての棚田は姿を消し、汐(農業用水路)も姿を変えてしまった。

  そこで、圃場整備以前の農地の様子を知る一つとしてかつての汐の位置を区内のお年寄(明夫、奥次、袈裟記、磯夫、一登、条一)の方々と共に地図上で確認していただき、別図のような水路図を作成した。(地図参照)また、その折に出た汐等にまつわるいろいろな話しがなされた。

  下山汐が現在は蓮井沢川まで来ている。古い茅野市史の水路図では蓮井沢川まではきていない。いつこの様になったかはわからないとのことである。

  若い頃(昭和初期)多々羅沢の奥に持栗川の奥へ水路を作り、多々羅沢川の水を持栗川に落としたと思われる遺構を目にしたが、水は流れておらずいつの時代の事かもわからない。(磯夫氏談)

  「汐上げ」を4月初めに横汐を干し、(水を止める)横汐をはじめ区内の汐の補修・土砂上げを行い、農業用水の確保を行った。横汐にアマゴなどが多くいたので、朝早く さかな取りをするのが楽しみであった。

  区内の各家庭の使い川としての水路が持栗川からとりいれ、幾筋もの水路があるが、これらは中川(中川用水)と呼ばれている。

  汐にかかる農道の橋は石橋が主であり、横汐など大きな汐には大きな石の角材を数本横に並べ、小さな汐では天然の平板の石を用いた。横汐にかかる県道(国道)の橋も石橋であった。

  出払いで橋をかける事もあったが、その時は橋の両端の石積みは事前に石工によりしてもらい、出払いのとき、区有林より落葉松を切りだし、曳いてきてかけた。その時の「かけ声」は久次郎氏が上手であった。

  冬になると区内の使い川として利用されていた「中川」が凍るので「氷壊し」がよく行われた。また、氷が川に詰まり県道(国道)に流れ出て、道が凍って困ったものである。奥次氏の前がよく詰まった。時には汐を無理に詰まらせ、こっそり田に氷を入れてスケートなどをした。区のはずれにある明夫氏の田がよくその被害にあった。

  水害も多々あった。特に音無し川の橋がよく流され、下流北大塩あたりまで流された材木を探しに行ったものである。(昔の橋は大きな材木を数本横に並べ、その上に土をひいた物が多かった。)

  特に昭和34年の伊勢湾台風の時は音無川にかかる子の神宮の木何の三橋と山口平の橋が流された。当時は区で橋の管理をしていたので大変な事であった。その時、川向こうで水害の警戒にあたっていた人の中に危険を感じ、こちらに橋を渡りきったと同時くらいに橋が流された体験をした人もあった。

  区の汐ではないが、北大塩汐(車沢汐)もたびたび汐が崩れる災害があり、崩れると柏原地籍に被害がでた。中でも昭和55年の災害は4月御柱の木落としの日におき、消防団の人々は急遽御柱引きを止め現場へかけつけた。この時は被害が大きく、緑の村の別荘地まで土砂が押し寄せた。北大塩との話し合いが長引き、時の総代(両角忠一氏)は大変ご苦労をした。

  かつての汐にはドジョウがよくいて取りに行った。持栗川にはカジカも多くいた。

  ホタルやトンボも多くいた。特に出材、越道の東、原、大清水付近にはホタルが多くいた。ヘイケボタルが主であったようである。