5.霧ヶ峰の歴史

●先土器人の足跡

 太古の霧ヶ峰が、今のような草原だったのか、森林におおわれていたのか、はっきりしません。ただ、 八島ヶ原の高層湿原が、1万年はど前からでき始めていたことだけは確かです。
 その八島ヶ原や踊場湿原の近くには先土器時代の遺跡が存在し、黒曜右を用いた石器が出土しています。 野尻湖人がナウマン象狩りをしていた頃よりは時代は下りますが、霧ヶ峰でも先土器の狩人が獣を追ってい たわけです。時代はずっと新しくなりますが、縄文時代の矢尻(石簇)も、高原一帯で採集されています。 よい狩り場だったらしい霧ヶ峰は、非常に古くから、人間とのかかわりを持った土地であることが分かりま す。霧ヶ峰の縁辺部にはホシガトウなど、黒曜石の原産地が存在し、長い時代にわたって先史時代の人たち に利用され、ここにとれた黒曜右は、遠く関東平野にまで運ばれていきました。霧ヶ峰は黒曜右文化の中心 部だったのです。

みさやまのまつり

 時代がずっとくだって、中世になると、霧ヶ峰は、御射山の祭りの場として登場してきます。八島ヶ原 ののど元にある御射山社の祭りに、源氏の武将などが集まってきて、狩や騎射の技くらべをしたようです。そ のとき造られた土壇が、神社を囲む三方の丘の中腹に残っていて、スタンド状の遣溝として知られています。 「みさやま」は、諏訪神社の奥の院のような重要な祭祀の場で、稲作と関連する風しずめの祈りの場だったと もいわれますが、近くの八島ヶ原湿原そのものも、稲作と関係ある湿原信仰の対象だった、とする説がありま す。この湿原の西にそびえる鷲ヶ峰は、山岳信仰の地となっていました。

近世には採草地に

 近世以降は、高原全体が周辺農村の採草地とし利用されました。野焼き(火入れ)も行われ、現在のよう な大草原となっていたようです。
 このように、霧ヶ峰が入会地であったことから、戦後の農地解放のさい、高原の草地が九つの村(牧野組合) に分割され、村人の共有地となりました。霧ヶ峰の約7割が民有地となっているというのは、こうした採草地と しての歴史的背景によるものです。

明治になって脚光

 明治時代になると、霧ヶ峰は、美しい花の咲き乱れる景勝の地として知られるようになりました。諏訪の 歌人島木赤彦は、幾度かこの山に登り、「霧ヶ峰のぼりつくせば眼の前に草野ひらけて花咲きつづく」などの歌 を残しています。明治38年9月6日には、長塚節が赤彦の案内で高原を訪れました。このときの作「うれしく も分けこしものかはろばろに松虫草の咲きつづく山」は、歌碑に刻まれて高原に建てられています。
 また、自然科学の研究者たちからも注目されるようになりました。明治44年、高層湿原が全国的にみても貴 重な存在であることが明らかにされてから、にわかに有名になり、霧ヶ峰は自然研究のフィールドとしても、多 くの人たちを集めることになります。

開発−観光地化

 昭和7年からスキー場としても開発され、昭和14、15年には、第1回、2回国民スキー行進の中央会 場に選ばれるまでになりました。
 また昭和7年には、霧ヶ蜂グライダー研究会が、諏訪出身の藤原咲平博士(元中央気象台長)によって設立さ れ、霧ヶ峰はグライダーのメッカとしても知られるようになりました。夏山観光地としての開発も、このころか ら本格的に進められ、強清水には山小屋、旅棺、会社の寮などが集中する観光施設地区となりまた。戦後は、観 光利用が一段と加速され、ことにビーナスライン建設(昭和40年代後半)後は、大規模な開発が急速に進めら れて、「車山高原」の観光施設地区が出現するなど、高原の様相は一変し、自然をどう守っていくかが、霧ヶ峰 の将来を左右する課題となってきています。

自然保護

 霧ヶ峰は、日本では代表的なアスピーテ型火山(楯状火山)です。
 台地状の山体に特色があるばかりか、その大半が草原となっていて、特異な景観をっくり出しています。その 風景美だけでも、じゅうぶん価値はあるのですが、さらに、台地上には、三つの高層湿原が展開し、自然度の高 い樹叢や、安山岩の原も見られるなど、貴重な自然地域となっております。山麓住民は、水のみなもとの地とし て、この山を大事にしてきました。山上には「みさやま」の聖地(信仰遺跡)もあって、手厚く保護されなけれ ばいけないお山です。
 昭和初期、諏訪中学の生物教師、飛田廣氏は、樺太(今はサハリン)にまで波って高層湿原の比較研究をし、 霧ヶ峰の湿原がきわめて価値の高いものであることを説いて、その保護のために奔走しました。この高層湿原が 、昭和7年という早い時期に、国の天然記念物に指定となったのは、飛田氏の努力といってもよいものでした。 霧ヶ峰保護の大恩人です。
 昭和43年、ビーナスラインが「みさやま」遺跡のまん中を貫き、八島ヶ原湿原のへりをかすめて通るルート で建設されようとしたとき、地元の住民が反対に起きあがり、建設路線を変更させて奥霧ヶ峰を守りました。霧 ヶ峰の麓の村に生まれ育った作家の新田次郎は、この事件を題材とした長編小説「霧の子孫たち」を書きました 。自然保護運動の記念碑的作品として読みつがれています。


全文:『霧ヶ峰の自然観察』土田勝義【編】大正印写1992年5月発行【第3版】