信州の鋸は、古い伝統と新しい技術により、品質と切れ味の良さにおいて全国的に有名です。今から180年ほど前、江戸で名の知られた鋸鍛冶 藤井甚九郎が高島藩の招きにより、諏訪に移住し、鋸の製造を始めたのが起こりで、甚九郎は信州鋸の元祖といわれています。その後、茅野市は信州鋸製造の本場として発展し、新潟県の三条市、兵庫県の三木市と共に、我が国鋸業の三大産地として知られています。この信州鋸は長野県伝統工芸品に指定されています。
諏訪の味噌が東京方面に好評を博したのは、大正12年の大震災後からです。
以前は生産も極めて少量で、各製造家が思い思いに縁故関係を辿って送り出していた程度でした。ところが京浜地方の大震災により、東京都内の味噌蔵庫がほとんど焼失してしまいました。これを聞いた諏訪地方の味噌製造者が、救済を兼ねて相当量の味噌を東京に送りました。これが都内各地に配給され諏訪味噌の良い味が賞味されるようになり、注文が殺到するようになりました。この頃から茅野市、諏訪市、岡谷市に大製造家が続出しました。もう一つ諏訪味噌が評判になった原因は大東亜戦争です。一般食糧は配給制度となり、全国から集まった味噌を食べくらべ信州味噌、諏訪味噌はおいしいと評判になりました。以来全国から注文が殺到しました。
茅野市は、寒天生産高日本一です。寒天製造は冬季間の厳しい寒気と、日照時間などの自然条件に恵まれなければなりません。諏訪地方の寒天製造は1830年頃、玉川穴山の小林粂左右衛門によって始められました。寒天の発明は江戸前期、山城国伏見であったといわれ、やがて丹波地方で農家の副業として発達しました。小林粂左右衛門は丹波地方の寒天製造を知り、その技を収得して郷里に帰り諏訪地方において寒天製造を始め、製品を甲府や江戸に出荷しました。その後茅野市宮川地区の製造者と共同出荷し、信州寒天の名を高めました。当時は原料輸送が困難で生産高もわずかでしたが、明治38年中央線開通以後今のような日本一の生産地となりました。
洋野菜の起源としての功績者は玉川神之原の原田与三郎です。
青年時代、東京の農家大学を卒業後帰省し農業に従事しました。米作が本業でしたが収益が少ないことから有望な事業はないかと考え、リンゴとアスパラガスを栽培し成功しました。その頃リンゴは長野にあっただけでした。
昭和元年、環境、立地条件、風土を生かした適作物として洋野菜の栽培に着手しました。種類はセロリー、レタス、キャベツ等でした。幾度か失敗しましたが研究の末前途に光明を認めました。種子はアメリカ、イギリスから優良種を購入栽培し、セロリー、レタスで稲作の25倍の収益をあげました。当時の日本では横浜と神戸で作られていましたが、夏期の物は茅野市への注文が多く盛況であったため、野菜を栽培する農家が急増し、今日に至ってます。
諏訪の花き生産は昭和初年に始まります。当時農村恐慌の嵐が吹き荒れる中、農家には多額の負債がありました。桑畑を花、野菜、果樹などに変えることが国策として実施されました。花き生産の発端はここに始まりました。第二次世界大戦の間、花き栽培は中止されましたが、戦後花き栽培は大きく延びました。菊は、玉川神之原の原田与三郎らによって昭和12年〜13年頃この地域に普及されました。昭和25年には金沢で菊の試作をし、東京市場に出荷されるようになりました。リンドウは、昭和23年霧ヶ峰高原からリンドウを折ってきて切り花で出荷されました。本格的な栽培は昭和25年〜26年頃です。
米沢北大潮の上原浅治氏が、八ヶ岳山麓の自生地の根株を採淑してリンドウを試作し、大阪市場へ出荷したことが現在の産地化につながる発端となり、現在では全国でも有数の産地となっています。この他カスミソウ、スターチス類の栽培も増加しています。
凍り餅は江戸時代初期に高島藩が幕府への献上物として作られました。当時はお城の中で製造され、民間人が作ることは許されませんでした。明治になり民間でも作ることができるようになり、横内の小川津右衛門という人が最初に作り始めました。製造方法も色々と工夫され、現在の作り方の基礎を築いた人が安国寺の小海長内という人です。
大正12年には市内で凍り餅を製造する家は19軒有りましたが、昭和12年には3軒、現在では安国寺に1軒のみとなってしまいました。全国でも8軒くらいで、そのほとんどが諏訪地方にあります。凍り餅は栄養があり、健康食品、病人食として最適なため病院で使われたり、お菓子の材料として使われております。
内陸の高冷地にある諏訪盆地の冬は寒冷で厳しい。その上、降雪が少なく乾燥しています。この風土を利用して凍り豆腐が作られます。諏訪で「しみ豆腐」と呼ばれる豆腐の歴史は古く、幕末には既に商品化されていました。八ヶ岳山麓の標高1200mの茅野市湖東笹原、白井出等が中心となっています。半丁の豆腐を5、6枚の大切りにし、零下7、8度の寒風にさらされて凍結させ、豊富な湧泉でとかし、よく水を切ってわらで編んで竿にかけ、冷たい戸外で天日乾燥をしてできあがります。
ソバには、たんばく質とアミノ酸がたっぶり含まれています。ご承知のように、たんばく質は人間のからだの構成に欠かすことのできない大切な要素です。そのたんばく質が、ソバ米と精白米を比べると1.5倍も多くソバに含まれています。そしてソバのたんぱく質は、とても良質で、必須アミノ酸(リジン)が、ゆでたソバでも米の2倍以上もあるというからおどろきです。またソバにはビタミン(ルチン・B1・B2)も多く含まれています。そば粉を熱湯で練ったそばがきを、わずか食べるくらいで、成人が一日必要なビタミンB1の4〜5割がまかなえるということです。そば湯(ゆで汁)は、忘れず飲みましょう。ルチンやどタミンB1は水溶性のためゆで汁に溶けています。干しそばのゆで汁の中にもたっぶり栄養素が含まれています。
オルゴールの誕生。それは中世ヨーロッパを舞台にした、二つの技術の融合により実現しました。一つはカリヨン。もう一つは時計です。
古くよりヨーロッパの教会には時を告げる鐘があり、人が叩いて音を出していました。その後、木製の円筒にピンを埋め込み、このピンでキイを持ち上げてハンマーを操作。音の異なる複数の鐘を自動的に鳴らし、メロディを奏でる装置へと発展。これがカリヨンと呼ばれるもので、1381年にブリュッセルの聖ニコラス・カーク塔につけられたものが最初と言われています。
一方、16世妃初めにドイツのピークー・ヘンラインによりゼンマイが発明され、時計の技術が発達。時報を告げるチャイムとして、カリヨンを時計に組み込む努力も始まりました。しかし時計の中に入れるにはカリヨンの鐘は大き過ぎます。そこで薄い鋼鉄製の坂を、長さや厚さを変えて調律する櫛歯が発明され、それを金属シリンダーに打ち込んだピンで弾くシステムが、1796年スイスのアントワーヌ・ファーブルにより確立されました。これがシリンダー・オルゴールの礎となり、以降時計技術の進歩とは完全に技分かれし、音楽再生装置としての発展を歩み始めることになります。
ところで、オルゴールという言葉。実はこれ、日本語です。江戸時代末期、オランダ人によりオルガンが持ち込まれた時、人々は驚き尋ねました。『これは何だ』と。オランダ人曰く「Orgel」。それがいっしか訛ってオルゴル、オルゴールとなり、当時音楽や楽器に対する認識のなかった日本人の中で、音のする不思議なものはオルゴール、となってしまったのでしょう。ちなみに本当のオルゴール、西洋で言うミュージック・ボックスが日本に登場したのは、大正中期のことです。
アントワーヌ・ファーブルにより、シリンダー・オルゴールの第一号が誕生した18世紀後半。ヨーロッパでは市民革命がおこり、それまで貴族のものであった音楽や芸術が、市民階級にも普及。19世紀に入るとオペラやオペレッタが盛んになり、その序曲やアリアが流行するようになりました。そんな時代に、手軽に音楽を楽しめるオルゴールは大変歓迎され、音楽観賞用の道貝として需要が高まると同時に、より本格的な音も求められるようになりました。
それに応えるべく、シリンダー・オルゴールは時計から独立し楽器として大いなる進化をします。音域を広げ、収録曲を増やし、良時間の演奏も可能にする等、演奏技術を高めるために櫛歯やシリンダーが改良され、付属楽器付きのものも作られました。そして音的にある程度の完成をみると、箱や装飾に凝るようになり1880年代には全盛期を迎えます。しかしシリンダー・オルゴールには収録曲数の限界、手工業生産のため大変高価という欠点があり、それらを克服すべく発明されたディスク・オルゴールの出場をうけて、19世紀末に急速に衰退の途を辿ることになりました。
時あたかもベル・エポック=よき時代。普仏戦争終結から第一次世界大戦勃発までの平和な一時、文化・芸術の花が咲き、科学技術が進歩する中。もっと安く、もっと沢山の曲を1台の機械で聴きたい、という要望に応え、1885年ライプツィヒのパウル・コッホマンが、ディスク・オルゴールの実用化に成功しました。曲譜にボール紙のディスクを利用する手回しのオルガンにヒントを得、ディスクを使って櫛歯を弾く仕組みを考案したのです。ディスクならプレス機で大量生産できますし、一台機械があればディスクを交換するだけで多数の曲を聴く事が可能。ディスク・オルゴールは小型の家庭用から営業用の大型まで爆発的に拡大しました。
しかし、シリンダー・オルゴールの100年の歴史に比べると、ディスク・オルゴールの栄華はわずか20年余。ディスク・オルゴール1号が生まれる10年前に、既にその種は発芽していたのです。それは1877年エジソンの蓄音機発明。これによりレコードが生まれ、音の再生だけでなく人の声や生の演奏の録音もできるレコードが台頭。ディスク・オルゴールは、1910年以降追われるように姿を消すことになったのです。
全文:茅野市観光雑学辞典