冬の仕事として、女衆は機を織って家族の衣類を作った。染物、針仕事など女の仕事として大変であったが、オッカサマという立場で春先まで続いた。着物の縞を見ればどこの家の子供か判ったものである。また、サシコ( 綿布を重ね合わせ一面に細かく刺し縫いにして縫われたもの。保温力があり非常に丈夫なので、柔道着・剣道着・消防服などに用いられている)・こうかけ(サシコの足袋)なども作った。男衆は藁仕事、山仕事が主であった。藁仕事では、足半(あしなか:足の裏半ばまでくらいの長さで、かかとの部分のない藁草履)・ぞうり・わらじなど一年中はく物と、米俵・なわなどである。
着物は新しいものはなかなか使用せず、つぎはぎだらけのものをていねいに使った。
買い物は現金ではなく、通帖で買い物をした。かったものを通帖につけてもらい、精算は、盆・暮であった。盆までは盆に(マユ代を当てる)、それ過ぎは暮(米代で当てる)ということであったが、なかなか精算できないことが多かった。
その頃の店は、たばこ屋(福松商店)、いかりや、丸万、こうきちじっさ、金たばばさ、などの店があったが、つぶれた店が多かった。
蚕が当たらないと買物の支払いができなく、酒、石油など少ししか購入できなかった。(大正5〜6年までは電気がなく、ランプを使っていた。ホヤ(石油ランプの火をおおい包むガラス製の筒)の清掃は子供の仕事であった。)
食事は米・野菜が主であり、いも、大根などを炭薪で煮て食べた。肉などは食べたことがなかった。缶詰などを食べることも少なく、病気でもして、お見舞いにもらったときでもなければ食べられなかった。
病気をしても、医者にかかる金がなかった。ひろあきさん(湯川の医者)が来たら、あの家は葬式になるなんて云ったものだ。
税金が払えなくて、税務署の職員が来て、倉の鍵の差し押さえをくったことがあった。税金の代わりに薪を納めたこともあった。
不景気の頃は、銀行や農協でも金を貸してもらえず、無尽(一定の口数と給付金額を定め、加入者を集めて定期に掛け金を払い込ませ、抽選や入札により金品を給付する制度)が流行した。無尽や親戚、親しい人にお金を借りて、借金に当てた。
北山村(現在の茅野市北山)の財政は苦しく、先生のお給料は村で払っていたが、給料が安いので、よい先生には来てもらえなかった。一番高い税金は村税特別税といって、一期養蚕(春・夏・秋の3回行われたうちの春の養蚕)の収入は税金にとられてしまった。
子供の食べ物
おやつなどなく、戸棚を開けても食べ物などなかった。
昔の子供が食べたものはスグリ(ユキノシタ科の落葉低木の果実)・メズ(桑の実の地域呼称)・イチゴ・コゴミ(クサソテツの若葉)・コナシ(小梨:バラ科の落葉小高木の果実、ズミ(桷)の俗称)・山ナシ(山梨:バラ科の落葉大高木、オオズミ・山林檎とも呼ぶ)・アケビ・山ブドウ・ハシバミ(カバノキ科の落葉低木の果実)・ミネズボ(櫟の果実)・凍モチ・コーセン(大麦や玄米を粉にしたもの)・キナコなどであった。
今はイナゴ・セミ・トンボが少なくなった。ヤマゼミ(山翡翠:ブッポウソウ目カワセミ科の鳥を指すと思われる)は全然いなくなった。ホトトギスの声も聴けなくなった。
魚も昔は八十八夜の後先にはたくさんいたがいなくなった。持栗川にいたがいなくなった。
池の平で青年会の行事(運動会)で川ぼしをして、村の役人、学校の先生を呼んで、焼いてごちそうした。当時いもりがいて気持ち悪かった。
圃場整備(田んぼの形を新しくする工事:田んぼや畑の区画整理だと思ってください)のせいか蛇もへってしまった。
○元旦祭(1月1日)
・柏原神社に参拝して、帰りにはそれぞれの稲荷講(稲荷:五穀をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)をまつった神社の信者が組織する仏事や神事を行うための結社)の祝神へお参りして家に帰った。
○カニの年とり(1月6日)
○小正月(1月13・14・15)
・作始め、農業の神様がおいでになるということで、カユカキ棒(十五日粥(正月一五日の朝に食べるあずき粥)をかきまわす棒:神事などに用いられることが多い物です)、福俵を作って神棚にあげた。(今でもやっている家がある)
・「萬物作」と紙に書いて壁や大黒柱(日本民家の中央部にあって、家を支えている柱、他の柱より太く、家格の象徴とされる:古い様式の家では今でも大黒柱があります)にはった。
・小正月の行事は、子供の行事祭でドンドやきを13日から15日まで毎晩小屋を燃やした。
・14日の夜は厄投げ(みかんや小銭を投げる事により自分に降りかかる災いをを少しずつ他人に背負って貰おうという意味で行われる行事:拾った小銭は早く使えと言われています)で厄年の人(男子2・25・42才、女子2・19・33才)の厄投げがあった。
・厄除けのいいぐさに「何やくかやく42草の口を焼く」を2回繰り返したこともある。
・道祖神様(悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神。旅の安全を守る。また、生殖の神、縁結びの神ともする。関連:障の神、塞の神、岐神)の前で、幼い子供を箕(み:穀類をあおってふるい、殻やごみを除くための農具)に入れて「ゴミやカスは飛んでいけ、いい実は残れ」とはやして箕をゆすった。これは誕生日にしたという人もいる。
○節分(2月3日)
・豆まき
・薪に13本炭で線をひいて門口に立ておく。鬼が月を数えるが数が合わなく迷っている時に、豆をぶつけられることになる。
○事八日(2月8日):ことようか(事始めの日)
・門の通路の入口に、ぬかやにおいの強いものを焼いた(今は行ってる家は少ない)
・年ごろの娘さんがいる家では、朝早くもちをつき、あんころもちにして道祖神にぬりつけた。
(「疫病神や一つ目小僧が現れる日で、物忌みをする日」とされている為このような行事が有ると思われる)
○女の節句 雛祭り(3月3日)
・娘の親が一番いいのを祝ってくれた。
普通は「板ビナ」(板で出来た雛飾りの総称)だった。何段飾りというのは最近のことである。
○春の彼岸
・仏教会(日本の伝統仏教界における唯一の連合体(正式名称全日本仏教会)の地域支部を指すと思われる)で念仏
○男の節句(5月5日)
・こいのぼりを祝った。戦後今のような人形(武者人形や金太郎)が出てきた。
○お盆(8月13〜16日)
・仏壇の前へヨシを刈ってきて敷き、新しいござをその上に敷く。
その上に、いろいろのごちそうをそなえた。
お位牌は、古いご先祖様の古い方の順(右から)に並べる。順序をまちがえると、ごちそうはあったが居場所が悪かったといわれないように気をつける。
・迎え火をお墓へ行き、ご先祖様を連れてきた。迎え火のちょうちんの火が消えると、またお墓へ行かなければならないので、消えないように気をつけた。消えた時のために電灯をもっていく人もいる。帰りは後ろをふりむかないようにする。
迎え火のことば
「このあかりでオイデオイデ」(オイデナンショ)
・お供え物としてハシ(ユウスゲ)、馬(ウリ)、牛(ナス)、ソーメン(荷ナワ代り)
・送り盆は、朝お供え物などを持栗川へ流した。(今は川をよごさないよう、トラックを2ヶ所におき、それに乗せて焼却場へ持っていく。)
・夕方送り火をちょうちんで、お墓へ持っていく。
送る時のことば
「秋の彼岸にマタオイデ」(オイデナンショ)
○秋の彼岸(9月23日)
・仏教会で念仏
○年越し・大はらい(12月31日)
・一年の仕事納めを行う(農具など)しかしこの行事は下村(湯川より茅野よりの標高の低い地域の総称と思われる)のごく一部で行われていたようである。
○その他の行事等
・ネエボコ・コバシアゲ 田植えや取入れが終わったあと先祖にこのことを報告し、一杯いただいた。
・中秋の名月 アキモチをおいべす(恵比須)様に供えた。
・秋の13夜 ノタモチ(ヌタモチ:枝豆をつぶして、砂糖で味付けしたものが「ぬた」で それをからめたお餅のこと。)を作る
・中秋の名月には畑のものを取ってもよいという習慣もある。
・盆踊り・正月の夜遊び 他村まで出かけ北大塩・堀あたりまで足をのばした人もあったようだ。盆踊りでは蚕ヤテットの若い衆が夜遅くまで遊んでいて、次の日にさしさわる事もあり困った事もあったようだ。
○道祖神 わで しも
道祖神のドンドン火は、上と下に分かれて、それぞれの辻で行った。上下の分け方は 今ではよくわからないが、深い訳がありそうで、お墓も上は観音堂(観世音菩薩をまつってある堂)のところ、下は薬師堂(薬師如来をまつってある堂)のところにあった。(昭和45年現在の位置(柏原霊園)へ上・下を統合)上・下組は現在の家の位置に入りこんでいて、下の辻を通って上組へ行くこともあった。常は仲良く遊んでいる子供も、この時ばかりは上・下の組意識が強くなり、他の組の辻を通ると「ケツを焼け」と云われ、時には火を持って追いまわされることもあり、自分の組の辻へ行くのに辻を避けて遠回りをしていくことがしばしばであった。
どんどん火は、1月13日から16日にかけてそれぞれの辻で行われた。上の辻は堂小路入口持栗橋たもと、下の辻は農協の店の所にあった。(昭和38年国道(当時県道)拡幅のため、上は歓喜院前、下は後ろ道入口へ移転)焼小屋は道の中に作り、3番小屋まであった。道の中に作るため、あまり大きな小屋は作る事ができなかった。小屋が道にあるため、自動車(まれにトラックが通る程度)や運送が通ると、小屋にこすり端を壊すことがある。すると子供たちは口々にいやみをはやし立て、壊し料をねだったりした。これもまた子供達の楽しみであった。
焼小屋作りは6年生が親方になり、子供たちだけで行った。親方がすべて中心になり、おっかない親方のときはなかなか大変な様であった。また、親方の入る小屋があり、そこにいて指揮をした。
ドンドン火の材料は、正月明けから組下の各家を回り、子供だけで集めた。材料は ボヤ(焚付けに使う小枝等)・桑ボヤ・松・杉・ミネズボの緑木・しめ縄などである。3〜4日間小屋を作るには相当量の材料が必要であり、学校から帰っての毎日の仕事であった。また、組下の家を示した帳面があり、各家で出してもらった内容を書き付けており、ボヤなどのない家からはお金をもらった。
小正月になると厄年(男42、25、2歳 女33,19,2歳)の家を太鼓を打って回り、厄払いをし、祝儀をもらって歩いた。親方によっては組下の各家を回らせたこともあったようである。
焼小屋を作る心棒は、御柱(御柱祭の小宮祭で使用したもの)の古い物を村からもらい、6年間使った、そのために心棒は小屋を作る数日前から川に入れ水分を含ませる工夫をした。ドンドン焼のときは、火が下火になると心棒を焼かないために次の年の親方が火の中に飛び込み、心棒を倒し川の中に入れ、次の日、来年のために保存をした。これはドンドン焼(ドンドやき・ドンドン焼・ドンドン火はすべて同じ行事を指すと思われる)の見せ場のひとつでもあった。
ドンドン火の残り火はバラ炭にし、組下の家に買ってもらい、現金収入にした。この金と厄払いの祝儀などで文具を買い、親方が中心になり、年齢や仕事の量などを勘定して、鉛筆、手帳(ノート)などを分配してくれた。これを楽しみに仕事に励んだ。しかし、親方の取り分は自分達で思うように決めたようである。
道祖神に立てる幟旗は組下の大人の人が立ててくれた。立てる人は各組にテイ番といわれる当番が決まっていて立ててくれた(この幟は今は立てないが、郷蔵に保管されている)
男性の42、25歳の厄払いは、仲間で宿をして厄払いをした。とくに42の厄は、前厄・本厄・後厄と3年間も厄払いをしたこともあり、厄払いの旅行なども行われた。
○天神様(6月24日)
天神様は上下の区別なく行った。
舞台に集まり、灯ろう作りを一週間くらいやり、堂小路入口の所に鳥居型の大きな灯ろうを作り、小さな灯ろうは天神様への道脇につけた。天神様の前には天萬宮の大きな灯ろうを立てた。
小学生中学年以上になると、手伝いをすることがあたりまえの事であり、「勉強する」というと手伝いをしろと怒られたものである。また、高等科(現在の中学生)になると一人前の仕事をさせられた。
○肥付け
6年生になると肥付けをやらされた。肥付けは、作付け前の大事な仕事である。1年かけて馬(牛)に馬屋でワラを踏ませた馬肥えを、もと肥えにするために馬屋から田畑に運ぶ仕事である。
馬にカルコ(縄を網のように四角に編み、石や土を入れて四隅をまとめるようにしてかついで運ぶ道具。軽籠または持籠
)を付けて運ぶのである。父が馬屋でカルコに馬肥えを入れる。この馬をひいて田畑まで行き、肥えを田畑に下ろして帰ってくる仕事である。カルコより肥えを落とすのが大変である。片方だけ落とすをカルコのバランスが崩れて大変なことになる。そこで馬の首下にもぐり、カルコの両方のヒモを同時に解き両方の肥えを同時に落とさなければならない。馬の首下に入るには決心が必要であった。
肥付けの一番忙しい時期には、親戚(親子)などより馬を借りて家の馬と2頭で肥付けをした。このときは父親が馬屋で肥えを馬に付け途中まで引いてくる。それを子供が受け取り田畑まで引いて行く。田畑には母親がいて肥えを下ろし子供に手渡す。それを引いて帰り、父親が引いてきた肥えを積んだ馬を引き取り田畑まで連れて行く。この繰り返しを1日続けるのである。忙しい時の昼は、肥えで汚れた手でムスビをかじりながら続けたものである。今考えるとよく病気にならなかったものである。
○大釜だき
馬に呑ませる湯や、食べさせるヒエなどを土間に作られている大釜で煮炊きをした。その火の番をするのが子供の仕事であった。釜が大きいので時間はかかるし、火を使うので途中で遊びに行くわけにも行かず、いやな仕事の一つであった。
○ゴミさらい
台所で薪を燃やすときのタキツケにする松葉・杉葉等を集めるのも子供の仕事の一つであった。一年中のタキツケを集めるので、量は相当なものであり、結構な仕事であり、男・女の子供の大事な仕事でもあった。
この仕事は、山の高い所に松山があるので、そこで採取をした。大きなカマス(叺:わらむしろを二つ折りにして作った袋)を背負って上り、松ゴミをいっぱい詰め込み縄でしばり持ち帰るのである。この時、ゴミを詰めたカマスを峰からあらし落とす(転げ落とす)のが楽しみであった。大きいカマスがワクンワクンとあれ落ちる(転げ落ちる)所はなんともおもしろおかしいものだった。これがゴミさらいの楽しみであった。
○子守り
子守りは主に女の子の手伝いであったが、男の子でもよくさせられた。小さい子を連れて一緒に遊ぶのも子守りの一つであった。幼子は背負って子守りをしたが、背負っていることを忘れ、遊びに夢中になり、思わぬことことをしてしまうことがあった。子供を背負ったままカラタチの実を取りに行き、カラタチのトゲで怪我をさせ、大変怒られたこともあった。
以上のほかに、畑の草取り、あぜまわし、一番代、田植え、田の草取り、稲刈りなどの農作業で子供でもできる仕事はすべて手伝わされた。また、馬にくれる萩・ワラを切るのも子供の仕事であった。
○なわない
子供の手伝いとして各家庭で行われた。
家の手伝いの外に学校に決められた量を出す(一種の宿題)
・小学校高学年より高等科まで(1ボ〜3ボ)
1ボ=20ひろ(1ひろ = 両腕を広げた長さ)
1束=10ボ
1ボ 大人3銭 子供1銭
・子供が学校へ持っていった物は、学校でまとめて金に替え、学用品等の補助にし、一部は修学旅行に行けない生徒への補助や、全員の旅行費の補助に当てたようである。
○ゴミさらい
各家庭のタキツケとして、松の落ち葉、杉の落ち葉を山に拾い集めに行くのが子供の仕事となっていた。
ノンキダワラに落ち葉をつめて持ち帰ったが、このたわらが子供の遊び道具となった。(山の上から俵を転がして落として遊ぶ。これが楽しみでゴミさらいに行ったようである)
○子守り
子守りは子供の大きな仕事(手伝い)であり、自分の家に小さな子供のいないときには、隣の子供を借りて子守りをした。数人がいっしょになり、遊びをかねた子守りであったようで、女の子の社交場でもあったらしい。
隣家の子守りをすると、盆・暮には下駄や布物などを駄賃としてもらえた。それを楽しみに子守りをしたようである。
以上のほかに小学校高学年になると、食事の用意はあたりまえの手伝いであった。今と違い、薪を使っての煮炊きであり、火をつけるのは子供にとっては大変な事でもあった。
(1)男の子の遊び
○パチ(メンコ)
メンコは男の子の遊びの代表の一つであった。遊び方はいろいろあり、その時々に遊び方を決めた。
・遊び方・メンコを裏返して取る
・人のメンコの下にもぐり込ませて取る
・ミカン箱の上など決められた場所から外に出して取る
・いろいろな取り方を組み合わせる
メンコの大きさや形はいろいろあったが、一般的には直径6cmほどの円形なものが多く、6X3cmくらいの長方形のものもあった。また、それぞれに大判なものもあった。メンコを重くして強くするためにロウを塗ったりして工夫したものである。これをロウを引くといい、これも勝つための技術であった。
メンコを裏返すのは、メンコで風をおこすのであるが、中には着ているハンテンの裾を上手に使って風をおこしてメンコをとる人が。この事を「風りゅう」と呼び、これを使えるかどうかを決めてやることもあった。また「てぶ」といい、手を上手に使いメンコを返すごまかしわざもよく使われた。
メンコは1銭で5枚くらい買えた(昭和初期)強い人は人のメンコを取り、ミカン箱へいくつもあつめた人もいた。メンコは湯川の店で売っていた。
○三角ベース ぶてえ
昔は場所が狭くて公会所(舞台)の庭か、お宮の庭くらいしか遊ぶ場所がなかった。野球をするにも四角にはベースが取れず、三角にベースを作って遊んだ。ルールは今の野球とほぼ同じであるが、場所に合わせたルールを取り入れた。ボールはボロをぐるぐる巻きつけて作り、仕上げは針で縫って形を整えた。バットは枯れた木をナタなどで形を作って利用した。冬などは田でもやった。
○棒ベース
太目の桑棒を10cm位の短い棒と30〜40cm位の棒を作って、短い棒を長い棒で打ち、それを空中で取ったり、短い棒を作って、短い棒の落ちた位置より、ホームに置いてある長い棒に当ててアウトとするなど規則にしたがって得点とした。
短い棒の打ち方は、地面に5〜6cmの浅い溝を掘り、その中にいれたり、溝に渡したりして長い棒で飛ばす、片手に長短の棒を持ち、短い棒を空中に置き、それを長い棒で打つなどを組み合わせゲームを作った。この遊びは2人いればできるし、場所もどこでもできるので三角ベースより手軽な遊びであった。
○ネッキ
ネッキは地面に棒をさして陣取りをする遊びである。昔はどの家でも田作りをした。1月13日に作り始めの行事として、ノリデの木でカユカキ棒を作り歳神様に飾り、苗代の水口へ二本さして洗米を上げ方策を祈願した。用済みになったカユカキ棒を四つにさいて棒を作り、それを田の中に一本ずつ打ち込み、相手の棒を倒して取ったり、陣取りをして遊んだ。その後、棒のかわりに大きなクギや金棒も使うようになった。また、場所も家の庭でもするようになった。庭の土が硬いためにクギが跳ね返り、顔に怪我をする人も出た。
○魚とり
養蚕に使った網を合わせてカジカ網を作り、音無川や宮の木汐でカジカやアメッ子を追って遊んだ。沢山取れたときは夕食などで家中で食べたものである。
また、カラカサ(傘:割り竹を骨組みとした唐風の傘)の骨で三角の簀(み)を作り、小さな汐やぬるめなどでドジョウ取りもよくした。簀のかわりにザルなども使われた。
ウケにコヌカを入れ、汐やぬるめに夜ふせておき、翌朝あげに行った。取れるときは大量に取れ、家中で食べたものである。
他には、水面で川をのぞき、モリ(ヤス)で魚をつき、カジカなどをよくとったものである。しかし、現在は、水の汚れ、圃場整備などで汐がなくなり、このような遊びは姿を消してしまった。
○虫取り
家からマッチの空箱をもらって、ナタを持って友達と川端を歩いて柳虫やバラの虫を取って遊んだ。この虫は赤ちゃんのムシがおきて泣いた時に使うと聞いた。串に刺した虫を炭火で焼いて、お母さんがカミつぶし赤ちゃんにほうばらせ乳を含ませていたことを記憶している。また、焼いて食べて健康の保持にも役立たせた。
セミ取りもよくした。松ゼミは朝早く松林の小さい木をゆすって落ちてくるセミを取った。宮ゼミ(アブラゼミ)も部落の柿の木や電柱に止まっているのをよく取ったものであるが、今はほとんどいなくなってしまった。
この他にもギス、ホタル、トンボなどもよく取った物であるが、今はその姿はほとんど見られなくなった。
○冬の遊び
冬の遊びの代表はソリであり、雪が多く降ると山道を踏み固めソリ道を作り、大勢で競争して遊んだ。
ソリはナラや桜の木で骨組みを作り、そこに板を張ったりミカン箱をのせたりした手作りであった。竹をはって滑りをよくしたりした。
ソリをする場所は遊び仲間によって決まっており、その仲間に他から入れてもらうには親方の許可が必要であったようである。よく使われた場所は原小路、ハチクボ、大清水の坂、舞台の裏の坂があり、また、家の近くの急な小路も使われた。
スキーは道具に金がかかるため、あまり多くはなく、やる人は限られていたようである。
スケートも田にこっそり水を入れて凍らせて滑ったが、あまり盛んではなかった。(スケートが盛んになったのは戦後であり、白樺湖のスケート場が大きな役割を果たした)
○その他の遊び
3月から4月の強い春風を利用してタコ揚げをした。タコは手作りのトンビダコが主であった。このタコ作りには古いカサの骨を利用した。
スモウは子供の間では割合に少なかった。消防の練習のあと、若衆組合の人がやっており、一番札の人を勝たせてその家に飲みに行くことがよくあった。また、若衆組合の人たちは消防練習のあと、よく石を持ち上げる力比べをやっていた。力石は長く下の火の見のところにあったが今は見当たらない。
(2)女の子の遊び
○おてんこ(おてだま)
・10個くらいで遊ぶことが多かったが、一人で20個くらいは持っていた。
・空中で2〜4個でつく遊びと、床の上に置いてそれを取る遊びがある。おてんこ取りの歌がある。
○がっこっこ(戸外での遊び)
・8個の丸(または長方形)を地面に書き、そのなかに石を投げ入れ、きまりにしたがって石を取る遊びや、石を片足とび(チンガラ)で順次いれていく遊びなど、いろいろ工夫して遊んだ。
○きしゃご(おはじき)
・ばらまいたおはじきに順次親玉をあてていく。
○あやとり
・一人あやとり 一人でいろいろな形を作っていく。
・二人あやとり 二人で交互にひもを取り形を作っていく。
○リリヤン
・リリヤン糸でひもなどを編む(ナイロン製の糸(1mm程度の太さ)で組み紐の要領で編む玩具:元来は糸の名称)
○陣とり(戸外で男女共)
○まりつき
・テニスボール(軟式)やドッジボールのゴムまりを使った。
・てまり歌が多くある。
○棒ベース(戸外で男女共)
・5cmくらいの棒と20〜30cm位の棒を使い、野球のようなルールで行う。2人以上なら何人でもできる。((1)男の子の遊び参照)
○ネッキ(くぎさし)(戸外で男女共)
((1)男の子の遊び参照)
小学校の6年制は昭和十六年三月一日公布の「国民学校令」以降であるのでそれ以降の話だと思われる
(1)運動会
開校記念の運動会(10月22日)であり、村中のお祭りであった。昼食のご馳走を食べるのも楽しみであり、親のいる場所を見つけることに気をまわし、昼近くの種目は気もそぞろであった。
種目では棒倒し、騎馬戦が思い出される。
(2)修学旅行
○小学校4年(国民学校初等科4年だと思われる、「国民学校令」公布以前は小学校の呼称なのと現在の呼称が小学校なのでこのような表現になっているものと思う。) 諏訪湖めぐり 下諏訪1泊
・学校−イチ峠−平石山−手長神社−湖畔 船にて 花岡公園(岡谷)−赤砂−下諏訪泊(かめや)
・秋宮(下諏訪)−上諏訪−高島公園−上諏訪駅 汽車 茅野駅−学校(船、汽車以外は歩き)
○小学校5年 甲府方面
○小学校6年 直江津方面 2泊 長野 直江津
・学校−茅野−松本−松本50連隊−長野1泊(清水屋)
・県庁−信毎(信濃毎日新聞社)−善光寺−直江津1泊(つたや)
・五智国分寺−直江津−長野−茅野−学校
○高等科2年(国民学校高等科2年だと思われる) 関西方面 奈良1泊 京都2泊
・費用として10円の貯金 学校より2円の補助(なわないより((2)女の子の手伝い参照))計12円で旅行に行き、小遣いはなかった。しかし男子で持っていく生徒もいたようだ。
・服装は、人絹の着物、人絹モスの紫のはかま、地下たび、肩かけのズックのかばんである。はかまがかばんですれてだめになるので、かばんにビロードの布をつけるなど工夫をした。
・おやつは持たせなかったが、女子の生徒で、リンゴ・ナシなどを隠し持っていったが、先生に見つかったり、男子に取られてしまった。(大正時代には、伊勢・奈良・京都と4泊の時もあったようである)
(3)登山
○高等科1年 蓼科山登山
日帰り登山
高等科2年 八ヶ岳登山 本沢温泉1泊
・学校−天狗−本沢
・本沢(夜半出発)−硫黄−横岳−赤岳−中岳−美濃戸−学校
・おやつ きゅうり5本 氷砂糖20銭分
・雨具として着ござを用いたが、ハイ松滑りの道具となっていたらしい。
(4)青年学校(昭和十年四月一日の「青年学校令」公布以前は実業補習学校+青年訓練校(詳しくは 文部科学省 白書等データベース 学制百年史 四 青少年教育の進展 を参照)
昭和22年現在の学制(二十二年三月に、「教育基本法」、「学校教育法」の制定・公布)が施行されるまでは、高等科を卒業すると青年学校へ行く人が多かった。冬季12月中旬から3月までは昼間学校へ行ったが、4月から12月の農繁期は朝学と夜学が主であった(女子は朝学のみ)
朝学は午前6時から〜8時であり、ラジオ体操のある日(週1回)は5時からであった。体操は女子はラジオ体操とドッジボールが主であり、男子は軍事教練が主であった。
教科の内容は、現代国語 数学(珠算をふくむ) 論語 裁縫 なわない 男子は農業などが主であった。
2年間が普通であったが研究科で5年間行った人もある。
男子の場合、軍事教練が多く行われ、教官として保科氏、源太郎氏がよく見えていた。松本の50連隊へ兵内訓練に行ったこともあり、兵器操作でほめられた人もいた。
(5)交誼会(青年会)
小学校を終えると入れられた。若衆への仲間入りである。
四区対抗(柏原・湯川・芹ヶ沢・糸萓)で陸上・剣道・弁論などの大会が行われた。柏原は剣道の強い時期があった。
幻灯会(スライド映写会)ではスライドを映しながらの弁論会をやったが、人前で話をするのが苦手な人には苦痛な会であった。
(1)みそ作り
昔は各家庭で味噌作りをした。そのための大豆を確保するのに大量の大豆をまいた。また、田の畦にまで大豆を作ったりもした。各家庭では年間におよそ2斗〜4斗(1斗=18リットル)の豆を用いた。
大釜で大豆を煮て、それを「ハンダイ」にいれ、雪ぐつで踏む大変な作業であった。(昭和初期より大豆をすりつぶす機械が出回り、作業は大変楽になる)つぶされた大豆を「ミソ玉」にし、発酵させ、頃合を見てミソ玉を臼でつき細かくし(ミソすり機を使うようになる)塩とコウジを混ぜミソ樽に詰め、1年間ねかした。
その時、ミソ1斗ごとの境にシミ大根、人参、ゴボウ、ナスなどをいれミソ漬を作った。(ミソの使用量の見極めにも一役)そのミソ漬は野良弁当(野良仕事≒田畑仕事:野良=野)のおかずとしても大切な食物であった。
(2)凍りもち
小正月ころ凍りもちを作ることが多かった。多い家では8臼(2斗〜3斗)もつく家もあった。凍りもちはもちだけでなく米の粉をふかし、その中にシソ、ゴマ、クルミなどを入れて作る家もあった。凍りもちは夏の野良仕事の副食であった。もちを紙に包み、一昼夜水に浸し、それを軒につるし、凍らせ、乾燥させたもので、野良仕事のおやつとして利用された。もちの中にゴマ、クルミ、豆などを入れ、いろいろ工夫されていた。また米の粉をふかしその中にゴマ、シソ、クルミなどを混ぜ小さく切り、凍らせたものもあった。
(3)しょいのみ
甘酒に水煮をした豆、ふすまコウジ(麦のコヌカにコウジ菌をつけたもの)を混ぜ、数日寝かしておいたもので、焼いたもちなどにつけて食べる。
(4)水あめ
大麦を発芽させ麦芽を作り、米や栗の炊いたものと混ぜ、麦芽糖発酵したものを麻布などにて絞り、しぼり汁を時間をかけてアクを取りながら煮詰めると水あめができる。
戦時中の砂糖の無い時は甘味の代表として、アズキあん、おこし(粟を炒ったものを混ぜ固まらせたもの)などに利用されたり、箸に手繰りつけて食べたりもした。
(5)しょうゆ
モロミを作ってしょうゆを作った家もあったが、ミソ樽の中にしょうゆカゴを入れタマリを使用した家も多かった。
(6)モチの保存
のり葉(おかのりの葉ではないかと思われる)、シソ葉、ウド葉、カシワ葉にくるみ、夏場のモチを保存した。のり葉やシソ葉はくるんだまま焼くことができ、風味もあり、おいしく食べられた。
(7)つぶしモチ(ウル(粳米:炊いて飯にする米の総称))、モチ半々で炊き、つぶしたモチ)の食べ方
・のたもち
枝豆をゆで、豆を取りだし、細かくすり、調味料を加えたものをモチにかけて食べる。(地方によってはぬたもちと呼ぶ)
・ボタモチ
小豆のあんをつけたもの
・アブラエモチ
アブラエ(荏胡麻)のすったものをつけたもの
(8)山菜
○野のもの
セリ タイワンゼリ ナズナ クジナ(タンポポ) ダイコンバ ソデフリナ アズキナ ミネバ シバコレイ ウコギ コメゴメ キノメ フキノトウ サンショウ ヨモギ シオデ
○山のもの
ワラビ フキ ゼンマイ コレイ ゼッタ(ヤマドリゼンマイ 昭和30年代より) コゴミ タラノメ ヤマウド イタドリ コシアブラ(平成年代)
○よく食べられた木の実
コノミ ハシバミ ヤマナシ ワマクワ ネリヤク(キハダの実の粉をねったもの)
○よく食べられた野草
・オコギ コメゴメ(ウツギの仲間) 木ノ芽 マユミ タラノ芽 ワラビ コシアブラ ゼンマイ
・ゼッタ(ヤマドリゼンマイ)
昔はほとんど食べなかったが、ゼンマイが少なくなってきて、ゼンマイの代用品として食べられるようになった。