11−2.農業の様子

11−2−1.稲作

(1)苗代

  大正時代は苗床を作らず、代をして全体を平らにならしてから種もみを全体にまく「平まき」をしていた。種もみをザルに入れ、全体に行き渡るようにばら撒いた。
  寒さを防ぐために、水をやや深水にしておいた。水は冷たく、なかなか芽が出ず、もみが腐ってしまうことが多かった。(今考えると、種子に対して酸素不足であったと思う)まくのは簡単であるが、後が大変であった。
  腐ってしまうので、ボルドウ液(硫酸銅石灰混液)で消毒をするが、液の配合等大変であった。苦労をしても苗間が外れる(出来が悪い)ことが多かった。

  稲作は、苗作りで決まるので、それにまつわる信仰があった。小正月の14日「作初め」の時、ノリデの木を15〜20cmくらいの長さに切り、皮をはぎ、一方の端は削り、他方は木口を4つ割にし、これを2本作り(ケイカキボウ)神棚に供えておき、苗代を作るとき、水口に立て、洗米などを供え、良い苗ができるように神様に願った。

  また水が冷たい為「ぬるめ」と呼ばれる長い水路を作って水を暖める工夫をしたが、苗間の場合は、水田の中ほどに「てあぜ」を作り、田を2分し、水口よりを「ぬるめ」に使い、苗間は田の奥手の方に作った。

  昭和に入り、苗床を短冊型に作る短冊苗代になって、発芽率も良くなった。苗床がきちんとしているので、種もみを均一に蒔けるようになった、床を高くして回りに水路ができるので、床が空気に触れても水分を補うことができるので発芽もよく、腐ることもなくなった。また種もみを土の中にすり込む事により、いっそうよい苗を作ることができるようになった。そして、種もみを蒔いた後、畑の土を上に薄くまき、発芽した苗の立ちあがりを助ける工夫がされるようになった。

  種まきは「八十八夜」前後が中心であったが、その年の天候により、苗のでき方が左右された。遅霜等を防ぐため、深水にすることが多く、苗間が凍ることも多々あり、水苗代はなかなか難しく、苗間の外れることが多かった。

  肥料は、昭和初期までは化学肥料はほとんどなく「下肥(人糞)」や木灰が主であった。しかし、昭和初期後半になると化学肥料が出回るようになり、仕事は大変楽になったが、肥料の配合が難しかったようである。

  昭和30年代に入り、苗床の上に油紙を張り保温をする「保温折衷苗代」が導入され、苗作りが一段と進歩をした。苗床に種もみをまき、その上にやきもみぬか、畑の黒土を薄く乗せすりこみをし、その上に油紙を張り、縄で風で飛ばないようにする。これにより発芽率は一段とよくなった。しかし、油紙を取る時期が難しく失敗することも多くあった。

  また、この頃になると、苗代用の配合肥料が出回るようになり、仕事はいっそう楽になった、しかし肥料の量、まき方などの難しさもあったようである。

  その後、油紙に変わりビニールがでてきてビニールトンネルを用いるようになり、現在はビニールハウスの時代へと移り、機械植え床へと変わってきている。

(2)肥料

  化学肥料が大量に出回る昭和30年代後半までは「馬肥え」を中心とした有機肥料が主であった。当時は、どの家でも馬(牛)を飼っており、馬屋で馬肥えを作った。飼料として与える「わら・ハギ」馬屋の敷きわらを年間通し踏ませ、馬肥えを作り、春になると、それを田畑に運び主肥とした。(馬にカルコをのせ、その中に馬肥えを入れて運んだ)

  その他には、カッチキ(雑木の芽吹き小枝)を山から切ってきて田の中に入れた。その為のカッチキ山を区有林として持っており、17年ごとに区割分割をして各家に分け使用していた。

  その他には、土手の草、水掛の草などを刈って田に入れた。これらは、夏になると田の中でわき、その始末が大変であった。

  石灰は、昔より使われており、生石灰を買い各家で消石灰にほかして田畑にまいた。これも大変な仕事であった。広い田にまくのが大変であるので、田の中でほかしてまいたが、まくのは楽であったがほかした場所の稲の出来が悪く失敗した事もある。

  化学肥料もはじめの頃はN・P・Kの肥料をそれぞれに買い求め、各家で配合したが、その割合が稲の出来を左右した。

  化学肥料の出回りと、各家の機械化が同時に始まり、馬の役目が終わり、各家で馬の飼育がなくなっていった。

(3)田植え

  苗代の出来の悪い年の田植えは苗の確保が大変であった。普通の年の田植えは、6月の10日前後であるが、苗の出来が悪い年は区より「何日まで苗留め」通達が出され、少しでも苗を大きくし量の増加を待った。また、田植えが始まると、区役員が各家を回り、なるべく子苗で植え(普通は3〜5本苗を1〜2本苗に)苗を残して不足している家にまわす様お願いして歩いた。区民全体の協力により、いくら出来の悪い年でも苗がなく田植えのできない田はなかった。(苗留めは6月15日くらいまで)

  田植えは、数人が横並びになり、3〜6株を植え移動していく方法が長い間続いた。その後、昭和10年後半頃より、間仕切りを先に植え、その間に3株を植えていく方法が取られるようになった。この方法は、各個人の早さに応じて行けるので長く続く事になる。

  一時は「わく」を転がして筋目をつけ、その筋目に沿って植える方法が出てきたが、深水にすると風でにごり、筋目が見つけにくく、浅水にすると植えた後「苗葉枯れ」をおこし、あまりよくなかった。
  その後、機械植えとなり、田植えの苦労から開放された。

(4)田の草取り

  3回の田の草取りを行った。「一番ご」(第1回目の田の草取り)は田植え2週間後頃に行った。これは草取りもあるが、堆肥・カッチキなどによって田がわいてくるので、それを押さえて苗の活着を助ける役目を第1とした。

  「二番ご」は7月の中旬頃に行い、田の草を取り、株の周りをかきまわし、稲の成長を助けた。

  「三番ご」(あげ取り)は、稲の花が咲く少し前、8月上旬に行った。稲丈が伸び、顔を稲の葉がつつくので面をかぶって行った。真夏であり、暑さとの戦いでもあった。「日よけみの」やヨモギ、土手にある木の小枝などを背中に背負って日よけにして行った。

  昭和初期より「除草機」が出てきて、それぞれの田の草取りの間に2回ほど稲株の間を押した。これは草取りよりも株間を耕し、稲の成長を助ける役目が主であったと思われる。

  除草機は「一条押し」と「二条押し」があったが、二条押しは重く苦労した。しかし、昭和40年代より、除草剤が出回り、田の草取りも姿を消した。

  〔田の草取りにまつわる逸話〕

  昭和初期、宮様が蓼科に来た時の事である。
  雨の中で「みの」を着て田の草取りをしている姿が宮様の目にとまった。その形が鳥に似ているので、「あの鳥はなんという鳥か」とお付の人に尋ねた。お付の人は「あれは田の草取りです」と答えた。すると「いかにも人に似た鳥がいたものだ」といったとか。

(5)稲刈り 脱穀

  大正10年ごろ、足踏み稲こき機が出る前は「センバ」で稲こきをしていた。その頃は夜刈りで稲を刈り、それを翌日「もみ」が良く落ちる日中に稲こきをした。稲こきの能率が悪く、雨でも降れば出来ないので大変な苦労であった。

  足踏み脱穀機が出るようになると、稲こきの能率が上がり、1日こく分を刈りため、それをコクようになった。しかし、夜刈りをする習慣は動力脱穀機が出る頃まで続いた。

  稲刈りをする鎌は普通の草刈鎌が使われており、硬い稲を刈るためすぐ切れなくなり、大変な苦労であったが、昭和に入り稲刈り専用の鋸歯のついた「稲刈り鎌」が出回るようになり、大変楽になり能率が上がるようになった。しかし、カッチキくすなどや、鎌が滑り指を切ることが多く、多くの人が痛い思いをした。

  「はぜかけ」は少なく、モミは「庭ぼし」をするので、これも大変な仕事であった、朝早く、田に出る前に庭に「ねこ」を広げ、そこにモミを薄く広げ、夕方はそれを軒下にまとめ、夜露から守り、これを繰り返し、十分乾くとそれを蔵に運ぶなど大変な仕事であり、乾燥を待つモミが軒下に積み上げられる事も多々あった。

  「はぜかけ」が進み、動力脱穀機(昭和30年代)が使われるようになり、また、乾燥機が出るようになり、稲刈りも大変楽になった。

(6)籾摺り

  動力籾摺り機が出るまでは、籾摺り臼で人力によって行っていた。軒先や土間で籾摺りをするのであるが、1日に2〜3俵位のものであり、当分使うだけを行う事が多かった。中には水車の動力を使って、籾摺りをする家もあった。

  昭和初期より動力籾摺り機が出ると、各地区で2〜3人の人が持つようになり、この人達が各家庭に頼まれて「籾摺り」をして回るようになった。柏原では、北澤馬雄氏、両角久平氏、湯川の平林氏などの方々によって行われていた。

  昭和30年代になると、各農家組合(常会)で機械を持つようになり、各常会で「調整者」を決めて、常会内の籾摺りを行った。

  しかし、平成になると、農協への委託が主になった。

(7)稲品種

  高冷地での水稲作りはいろいろな工夫がなされた。水の冷たさに合わせて品種を選んで植え分けをしている。

  大正以前の品種は、はっきりしていないが、大正後半は「シビサライ」という品種が多く植えられていたようである。

  昭和に入り、早稲として「陸羽132号」や「尾花沢1号」などが多く植えられ、その後「ヨネシロ(フケイ51号)や「ホウネンワセ」へと変わっていく。

  中生は「農林1号(トウホク)」が長い間作られたが、その後「トドロキワセ」なども作られるようになった。

  「本モチ」は「福島モチ」が主流であった。

  現在では、白樺湖の効果も出てきて、植え分けもする事も少なくなり、全面一品種が多くなった。品種もいろいろあり、用途に合わせた品種選びをする時代へと移ってきた。

(8)その他

○あぜ豆

  大豆を大量に必要とした時代は「あぜ」に大豆を植えた。稲のためにはあまり良くなく、昭和中期より姿を消した。

○あぜぬり

  現在はほとんど「あぜぬり」はしないが、昔は大変な仕事であった。あぜぬりをしなくなってからあぜ豆を植えることもなくなった。

○取れ高

  1反歩  7俵半  柏原では5〜6表

  柏原の1俵取りは40坪(1畝=30坪 1反歩=10畝)
  柏原では田の広さをいうのに「何俵取り」といい、畑では「何升まき」といった。

 ・昭和初期まで桑畑としていた田を、養蚕の衰退により田に復活させたり、から畑を田に変えたりして、1〜2割は増加した。
 ・昔は日当として米を用いた。

  草取り  1日  米1升
  大工   1日  米3升  といわれた。

 ・大正、昭和にかけての天候不順による不作は、昭和28年が最悪であった。このときは、自家米も確保できず、外米を食べたほどである。
 ・馬を使って馬耕や代車を引かせての代の時、田の中に隠れている大きな石に「すき」や「代車」があたり、大きな音を立てると、馬が驚き走り出す事が時々あり、その事が良く世間話の話題となったものだ。

11−2−2.養蚕

  養蚕は、区内ほとんどの家で行い、春・夏・秋の3期が普通で、中には晩秋まで飼った家もわずかながらあった。一軒の蚕種(卵)は平均60g位であったと思う。マユにして20〜30貫が普通であったが、100貫もとった家もあった。(1貫=3.75kg)蚕種はそれぞれの家の得意の種屋があり、配って来た〔昭和になると、毛子(卵より孵化したばかりの幼虫)で配るようになる〕

  良い品種の蚕は、病気(赤頭)になりやすく、何回も川に捨てたりした。病気に強い蚕のマユは小さく、値にならなく困難した。

  桑は山畑の奥まで植えた。

   ・汐上から山桑平・餅栗から蓮井まで。
   ・田をつぶして桑を植えた時代もある。

  桑もぎは、女と子供の仕事であり、小学校5・6年になると手伝いをした。

  養蚕の最盛期には家の人だけでは人手が足りず、小県や佐久の人を手伝い(ヤテット)を頼み、朝は4時起き、夜は11時から12時頃まで働いた。家人は家のオエイだけで生活し、蚕が家全体で飼われた。(屋敷の天井がすすけているのはその名残り)

○マユ売り

  昔は岡谷・下諏訪・上諏訪の製糸家が各家を回って、マユを見て値をつけ、買っていった。

  安値をつけられる事が多く、これではいけないと、絹糸会社を作って買ってもらうようになった。
  絹糸会社でセリをして売るようになった。
    北山絹糸−芹ヶ沢、湯川絹糸−湯川、上川絹糸−北大塩、山浦絹糸−山田・穴山
    矢ヶ崎絹糸−矢ヶ崎  やまけ絹糸

  マユ値が下がるようになると絹糸会社もつぶれ、この地区では北山絹糸と湯川絹糸が主となった。後には組合製糸が中心となったが、戦時中から戦後の初めは組合や公民館での取引が行われた。湯川や芹ヶ沢まで、マユかごに入れてしょい下ろすのは楽ではなかった。戦前まではセリの当日お金をもらって家に帰った。時には毛羽取りの道具などを買うとお金がなくなる事もあった。

  マブシ(テヤッコ)もわらで作ったものから、改良型回転マブシへと変わった。(わらマブシを使っている頃は、マブシのわらのスベを使ってスベブトンを作った)

11−2−3.炭焼き

(1)カタ炭(白炭)

  カタ炭は、炭窯を築きその中で焼いた。炭窯は築くのが難しく、誰にでも出来る事ではなく、区内にも数人しかおらず、その人に頼み築いてもらい炭を焼いた。その中に2〜3人名人がいた。現在窯を築けるのは両角正三氏のみである。

  炭窯は、3尺×6尺を基本とし、この窯を三ぶ六窯といった。各人はこの標準に何寸か伸ばしを入れ、自分にあった窯を作ってもらった。北澤正一氏は5寸伸の三ぶ六五寸の窯を使ったという事である。

  炭窯は山の斜面に5尺×7尺くらいの掘り込みを作る。底面に石を敷き、回りは石積みにする。一番奥に煙出しの「オノ穴」を付ける。このオノ穴の勾配が難しく、勾配の取り方で火の燃え方が違い、炭の出来が違う(尺八のような曲がりが良いとされている)

  窯の天井も石積みで作る。この積み方が難しく、石を重ね積みし、最後にトメ石を入れると天井が出来る。この石積みとオノ穴の勾配を決めるのが名人の技であった。天井の石積みがすむと、その上に土を盛り上げる。窯の前には4尺×1尺くらいの「トマくち」を付け、材料を入れ炭の取り出し口とした。

  窯の前にはカヤぶきの「さしかけ」を作り作業場とした。

  材料の木はナラを主とし、カシワもいっしょに焼いた。栗はカタ炭には用いず、山桜、白樺などは雑木として別にした。

  木は4〜5尺(120〜150cm)に切り、太いものは二つ又は4つ割にして太さをそろえる。細かい枝などは15cm径くらい束ねた。上のほうは焼き切れない様に針金で、下の方はワラ縄で束ねた。(この縄は女衆が冬季の仕事としてなったもの)木は太い物より奥の石壁に垂直に立てていくのであるが、これが難しく、「カナマタ」という道具を使ってもなかなかできなかった。
(カナマタ)

しかし、炭焼きの名人ともなれば、トマ口より木を窯の奥に投げ込めばきちんと立っていくのである。奥から周りに太い木を立てて入口の近くには細い木を詰めていき、窯全体に詰まったところでトマ口で口焚きを2時間くらい焚く。オノ穴より出る煙の色がむれ煙(黄色くむせっぽい)になると、トマ口を石で蓋をし、泥土で小さな穴をなくし、一番下の方に〆穴(空気入れ)を付ける。

  次の日には淡青色の煙となる。煙の出る穴(オノ穴)を大きくし、〆穴も大きくする。10時ごろになると煙が出なくなり、炭の焼き上がりである。

  トマ口を取り外し、カナベラで真っ赤に焼けている炭を窯よりかき出す、カナベラは重いので、窯の前のさしかけ天井のはりからひもでつるして使った。取り出すときに上手にやらないと、せっかくの炭が細かくなってしまい、売り物にならなくなる。かき出した炭にゴマ灰(水分を含ませた土)をかけ、炭が冷えるのを待つ。


(カナベラ:3〜4尺90〜12cm)

  炭を全部取り出した窯は1時間くらい冷まして、次の準備にかかる。窯がまだ熱いうちの準備であり大変であった。続けて焼く特は窯が温まっているので、口焚きは楽であった。

  ゴマ灰をかけ、十分に冷えた炭は、長い良いものと他にわけ、俵詰にする。良い炭は俵の周りや俵口に詰め、やや細かい物を中にいれるなど工夫して8貫目(30kg)の俵を作る。細かい炭は自家用にした。三ぶ六の標準窯で4俵の炭が出るのが普通であった。

  焼いている間に次の窯の材料を作ったり、窯の周りの土が焼けて窯が緩むので窯じめをするなど、大変忙しい仕事であった。

  炭焼きは、柏原にとって、養蚕に続く現金収入の元であった。秋の取り入れが終わる11月中旬より12月中旬まで、正月三が日明けより3月までやる人がいた。炭焼きをする人は夏のうちに窯を築ける人に頼み作っておいてもらった。

  琵琶石(現在の白樺湖付近)や佐久の山では泊山といって住む小屋を作り、そこで生活をしながら炭焼きをした。

  一方、区の近くの地山、持栗、17年割り等で炭を焼くのを「通い山」といい、朝家を出、夕方前日火入れをした炭を持ち帰る方法が行われた。

  「元締め」といい、焼き手(主として佐久地方の人)を頼み、佐久方面の山を広く買い、専門にカタ炭焼きをした家が多々あった。昭和初期にも、(才二郎、菊三、長重、寅之助、利視、権吉、久郎、幸太郎の各氏等)数人の方々がやっていた。

  柏原では「白炭」が主であったが、両角徳三郎氏が土釜を築いて黒炭を焼いたこともあった。

  また、戦時中四賀小学校へ徳三郎氏を先生として連れて行き、炭焼きを泊りがけで教えに行ったこともある。(正一氏談)

○山わけ

  柏原の財産区では、広い草山と雑木林を財産区有林として所有している。その中で、人里に近い雑木林の一部(持栗前山、馬橋久保、多々羅等)を区民に分割して貸与し、各家で自由に利用させた。

  貸与年限は、薪や炭焼きができるようになる17年を限度として分割し、これを17年割山とした。

  昭和34年に分割がおこなわれたが、その後、薪炭の需要が少なくなり、17年では利用し切れなくなり、そのまま40年に期間を延長したが、その後、再度延長をし、70年(昭和104年=平成39年)分割として現在に至っている。また、分家用の分割林として、現在も持栗の入り(奥)が用意されている。

  この割り山の他に、持栗の入り、多々羅の入り、前八坪(本道)、エボシ沢、蓮井、宝藤など、比較的近い山を林の木の太さ、区民の要望などを考慮して、2年ぐらいの期間に小分割をし、区民に薪炭の用材として利用させたが、現在は行われていない。

  現在では毎年利用できる山を決め、秋口より冬にかけて区民に自由に利用させる方法に変わってきている。

  この外に、昔は田圃の肥料として用いられた「カッチキ」(雑木の若木を田圃に入れ、二番代で田に踏み込み元肥の一部とする。)を取る山を当年分として希望者に分割し利用させた。(馬橋久保、赤芝など)しかし、これも化学肥料が出回る様になると姿を消した。

  この山の分割には、柏原特有の「とびっくらで分ける」という方法が用いられた。

  分割する山を権利者数に分け、近くの割を数ヵ所まとめて1ブロックにする。分割する山を区民に事前に知らせ、下見等をさせておき、日を決め、公民館前広場に区民を集め分割した。

  自分の希望する山のあるブロックの立て札の場所へ行かせる。これが「とびっくら」である。良いブロックへは多くの人が集まる。そこで人の少ないブロックへ移動する。これが「ことび」である。これを繰り返しそれぞれのブロックを希望する人が決まる。ブロック内でも良い場所と悪い場所がある。そこでブロック内で「せり」をして持ち山を決め、悪い所の人に金を分配し、公平を図った。山をもらっても炭焼きなど仕事の出来ない人は欲しい人に権利を譲った。

  この方法も山の利用がなくなり、昭和の後半には姿を消した。

(2)バラ炭

  バラ炭は、冬のコタツ用としてこの地方の必需品であり、一冬20俵ぐらいを必要とした。

  秋の取入れが終わると家中でバケツなどの道具を馬に付け、野山に出かけ、山の良い場所を見つけ、バラ炭焼きをした。

  雑木を切り、一ヵ所にまとめ、穴を掘りその中で焼く。「木を切るより穴を掘れ」というくらい、深く大きな穴を作ることが良い炭を焼くコツである。切り出した木は枝などの細かい部分と幹の太い部分に分け、適当の長さに切り、太いものを先に燃やし、そのあとに細かい部分を一気に焼き、素早く消していく。水分を多くすると良く消えるが重くなる。少ないと充分消す事ができない。その加減が大変である。水のないところでは焼けた所に「むしろ」をかけ、その上に土を5寸(15cm)くらいかけ、1日おいて次の日に掘り出す。この方が良い炭が焼けることが多かった。

  消し方が悪いと帰る途中で俵が燃え出したり、家で積んでおくとそこから火が出て火事の原因となることもあった。だから家へ持ち帰った俵は庭先へ家から離して1俵ずつ置いたものである。しかし雨でも降れば大変であった。

○バラ炭炊きの名人(加茂七氏)

  少ない木を上手に炊き、多くの炭を作り、質も良く、買い手が多く高く売れたそうである。「木を切るより穴を掘れ」
  昭和10年代 バラ炭1俵50銭 当時1日日当50銭

(3)カジヤ炭

  鍛冶屋のフイゴ用の炭であり、藤三郎氏の他、二〜三家で焼いていた。クリの木をバラ炭の焼き方で焼くのであるが、大きな穴を用いて1回で30俵くらい出たという。

  クリの炭は火力が弱く、すぐ消えるため、鍛冶屋のフイゴに適していたので玉川の山田の鋸鍛冶屋へ特注で持っていった。(ナラ炭は火力が強く消えにくい)

(4)炭売り

  元締めの人達は町の薪炭店を抱えていたのであまり値崩れはなかったようであるが、一般の人は売るのが大変であった。売れない時は「中師」(仲買人)の所へ持っていくのであるが、足元を見られ、買い叩かれ、半値になるときがあった。

  男衆が焼き、女衆が炭を売り歩いた。馬に4俵(1駄)を付け上諏訪まで市売りに出かけた。その市売りの時に北大塩峠を通ったので、市峠の別名があるほどである。

  元締めの人は運送で行くことが多かった。

  カタ炭を消すときに出る「ご炭」は自家用とし、良いカタ炭は家では使わなかった。自家用はバラ炭が主であった。
  女性の中には、なかなか上手な売り手がいたようである。

(5)その他

  女性は男が炭焼きをしている冬に、俵編み、縄ない(炭焼き用)や手ボッカ刺し(麻糸で刺し子にした布製の手袋)や甲掛け刺しなどをした。

  当時は、鋸、鉈で木を切り、自分の背中で背負って運び、夜の明かりはランプや松明である。

  ゴム長靴はなく、雪ぐつが主であり、手足にアカギレが出来た。アカギレは膏薬を火箸で焼きこんで治した。

11−2−4.馬

(1)馬の役割

○物の運搬用としての馬

  山仕事や農作物の運搬用としての馬は、この地方で必需品であり、ほとんどの家で1頭は飼っていた。中には2頭の馬を飼う家も数件あった。しかし、馬を飼っていない家も10数件あった。

  駄馬として利用が多かったが、運送が出るようになり、運搬の能率も良くなった。しかし、道が現在と違って細く急な道が多く、駄馬としての利用も多かった。

  区内には「運送」を使って運搬を職業とする人もあった。「運送屋」と呼ばれ、氏等多くの人がやっていた。

○馬肥え作り

  化学肥料のない昔は、「馬肥え」は農作になくてはならない肥料であり、馬の大きな仕事であった。

  馬の餌は、初夏から秋にかけては、青草が主であった。7月1日「草山の山の口」が明けるまでは「水かけ」の草を利用した。草を刈る能率は良いが、草が重いのが欠点であった。また、馬の餌にする草を毎日刈るのも大変な作業であった。

  青草のない冬は「ハギ」が主な食べ物となった。一冬に20〜30駄(1駄6束)のハギが必要であった。このハギは、車山から麦草まで9月1日の山の口が明けると家中総出で草刈をし、これを野で乾かし家に持ち帰る。これも大変な作業である。このときは、女衆も馬でハギをつけ、(ハギを運ぶ事)をした。なれない馬を使うのは大変であった。このハギと稲藁を細かく切って馬に与えた。ハギ切りの仕事は小学校高学年よりやらされたものである。

  また、稲藁は、馬小屋の敷き藁として入れ、馬に踏ませ馬肥えを作らせた。この敷き藁を上手に敷かないと馬小屋の真中ばかり高く なり、夜、馬が転ぶ事があるので平に敷いてやることが大切であった。

  馬に飲ませる水も、昔は必ず沸かしてやったものであるが、戦時中より生水を飲ませるようになった。この水を沸かすための大釜がどこの家でも土間にあった。この釜だき用のボヤは女衆が取りに行った。(大芝方面)

  また、ハギを天井裏に積み、その下で火を焚くのだから火事の危険があったが、よく火事にならなかったものである。

○水掛け

  高冷地の当地区は草の芽吹きが遅い。馬を飼っている農家にとっては、緑草が一日でも早く欲しい。そこで、草野に湧水や川の水を掛け、雪解けを早め、他の草山より早く緑草を育てる方法を考え出した。これが「水掛け」である。

  「水掛け」は区有林の原野を利用した場所と、個人所有の原野を利用した場所である。

  個人所有の水掛けは奈良崎、張付場、新水掛、四右衛門畑、清三郎水掛、乗揚げ、若衆水掛、などである。

  この中で張付場、新水掛、四右衛門畑等は5〜6年期で希望者に分割売却し、利用してもらい、他は全区民に開放した。開放する日を「水掛けの山の口が開ける」といい、6月初旬に決めた。

○草山の火入れ

  農耕用の馬や牛の飼料としての草を得るために、広い草山を財産区で所有しており、区民に利用させた。この草山の草を育てるために春先椅草を焼いた。昔は適宜やっていたが、火を扱う事であるので、昭和初期より区民総出で組織的に行うようになった。

  麦草から大門街道までを東山、大門街道から車山にかけての西山の2日に分けて、4月の中旬から下旬に日を決めて火入れを行った。

   これには18歳以上の男性全員で行い(人別割り)、当日、午前6時の半鐘を合図に割り当てられた場所へ集合し、本部(区長及び担当役員)の合図(日の丸の旗で指示)で火入れを行った。昔は車などなく、すべて足で歩いていくので弁当持ちの1日がかりの仕事であった。

  また、財産区以外の山への延焼を防ぐために郡境には防火線を設置したり、事前に境焼きを行い、万全を期して行った。

  昭和30年代後半になると農機具や自動車の利用が増え、農耕馬の数も減り、ハギなどの需要もなくなり、昭和38年には火入れを中止した。

  しかし昭和40年より、現在行われている西山の一部を観光用草山として確保するために再び行うようになった。

  なお、火入れをしなくなった草山は、カラ松の植林が行われ、現在はカラ松林となっている。

○農耕用としての馬

  主として水田の耕作に馬を利用した。馬に鋤を引っ張らせての田起し(馬耕)、代車(しろぐるま)を馬に引かせてやる代かき。この地方では代かきを2回やった。特に二番代では、その力を発揮した。

  馬肥えも馬にカルコを背負わせた畑に運んだ。

  両手綱(馬と鋤を一人で扱う)で1人で馬耕が出来て一人前である。代車が出回る前は、馬に踏ませて代をしたが、これもむらなくやるには大変であり、馬の扱いが物を言った。

(2)馬についての話

  馬にはクセがあり、使いやすい馬もあれば使いにくい馬がある。馬を買う時は、馬のクセを見抜く事が大切であった。音に驚く馬、自動車を嫌う馬、カマチカジリの馬、足で戸などを叩く馬、女子供を馬鹿にする馬等々、いろいろであった。だから買う時は血統を調べる事が大変であった。

  北海道産の馬はよかった。木曽駒もよい方である。その他ではべル、ジュウハンケツの馬はよかったが、チュウハンケツの馬はよくなかった。

  馬のしつけの上手な人がいた。(運送カズ)

  馬は人の気持ちを見ることが上手であり、馬がおっかながる人は形ではなく、その人の持っている何かであったようだ。

  戦時中は軍用として子馬を育てるよう指導され、多くの家で子馬を育てた。乙事に「競り馬」があり、1頭2万〜5万で取引がされていた。

  木曽駒は爪が強かった。また木曽駒は駄馬としてはよかったが、小型であるので運送など引き物には適さなかった。

  金ぐつ屋(蹄鉄屋)は湯川にあった。

  白樺湖が観光地化されたあとは「貸し馬」で現金収入を得た。

  牛も少数ではあるが飼った家がある。「赤牛」であるが、つぶしがよい値で売れた。牛も人を見るので扱いにくい事もあった。

  戦後、乳牛を飼った。現金収入源としてであったが、(昭和23〜4年頃が最も多かった。)現在は1軒だけである。

○観音堂の馬頭観音

  馬が死んだとき、お墓代わりに立てたものである。石工として藤巻氏がいた。

  木の馬(お馬様)についてははっきりしない。

  観音堂には昔、堂守がおり、村内を「托鉢」をして歩いたようである。

  観音堂には昔は赤唐金の灯篭があったが今は台石のみである。「盗まれた」という話もある。

○馬乗り石

  駄鞍馬で荷物のない時は、よく馬鞍の上に乗って目的地まで行くことがあった。しかし馬の背が高いので、乗るのが難しく、大きな石や石垣などを利用して乗った。

  上の村外れより、200mばかり大門寄り、道の左側に大きな岩があり、この岩を馬に乗るときよく利用し、これを「馬乗り石」と呼んでいたが道路の拡幅のとき取り除かれ、現在はなくなっている。

○馬の種類

 ・木曽駒
  小型でおとなしく、農耕場としては適している。
 ・道産駒
  北海道産の力の強い馬。農耕・駄馬とし適している。
 ・ペル(ペルシロン)
  体格の大きな力のある外国産の馬力馬で、運送引用に適してい
  る。
 ・ジュウハンケツ
  外国産の重い馬と軽い馬との雑種。農耕・運送両用馬。
 ・チュウハンケツ
  外国産の軽量級とのかけ合わせ。

○馬の荷付け量

 ∴駄ぐらの荷物(一駄 一頭の駄ぐらに付く荷物量)

   ・米俵 2俵  ・籾俵 2俵
   ・薪 6束  ・ベエタ、ボヤ 6束
   ・炭(8貫俵) 2俵  (4貫俵) 4俵
    バラ炭(大俵) 2俵
   ・ハギ 6束  ・青草 6束
   ・肥料俵、石灰俵 2俵

 ∴運送一台の荷物

   ・米俵 15〜20俵  ・籾俵 30俵前後
   ・薪 新60〜100束  旧30〜50束
   ・ベエタ、ボヤ 40〜50束
   ・炭(8貫俵) 15〜20俵  (4貫俵) 30俵
    バラ炭 20俵前後
   ・ハギ 30束前後  ・青草30束前後
   ・材木 5石前後(一石 未口1尺(直径)×10尺)

    運送一台に200〜300貫目を目安に荷物を決めた。

11−2−5.畑作業

  養蚕の盛んな時代(昭和20年代まで)は、桑畑が多く、桑もぎや桑畑の手入れなどが女性の主な仕事であった。桑畑は遠く、山の手に多く、大変であった。(田は近く、畑は山つき、山口平、山桑比良、聖沢、など)

  から畑は馬の餌にする「ヒエ」や「大麦」、みその原料とする「大豆」などが主である。豆は連作を嫌うので、大豆とヒエを交互に作る事が多かった。また、桑畑で桑の株間に麦を蒔くこともあった。

  桑畑の手入れの一つに桑切り(桑株より伸びた枝を切り取る)がある。畑に馬を入れるため、切り口をなるべく平にする必要があり、力のいる仕事のため女性にとっては大変な仕事であった。

  家の近くのから畑は、自家用の野菜を作る前栽畑として利用した。作物は大根、菜、ジャガイモ、ネギ、人参、ウリ、ナス等、日常の食事に用いる野菜である。大根、ネギ、人参、ジャガイモ等は越冬用も考えて作付けがなされた。(越冬は土の中でさせる)また、春蒔き野菜、秋野菜などを考え蒔き付けに工夫した。

  漬物用の菜は「イネコキナ」と「ノザワナ」が併用して作られ、イネコキナは主として夏まわし用として塩を強めにしてつけられ、翌年の4月以後に食べられるようにした。しかし、昭和40年代より「ノザワナ」だけになってきた。

  大豆、小豆、黒豆、アオバタ(キナコ用豆)煮物用の豆(ミツムネ、キントキ、ホオカブリ等)は家より遠いから畑に作付ける事が多かった。また、戦時中より食料が不足するようになると小麦の作付けが多くなり、ジャガイモも大量に作られるようになり、サツマイモも作られるようになった。

  この頃になると、養蚕も下火になり、桑畑をから畑にするようになり、雑穀や野菜の作付けが増加した。

    キャベツ−大正末期より   スイカ−大正時代より
    トマト、サツマイモ−昭和10年代後半(戦中)
    レタス−昭和40年代

  ソバは、この地方ではあまり作られなかったが、作る家もあった。小麦も初めは自家用の粉を取るためくらいであったが、戦中には増加した。麦の収穫は夏であり、暑くて大変であった。

11−2−6.ハタ織り

  ハタ織りは、柏原の女性にとって、針仕事同様一家を支える冬の仕事の一つであり、学校下がり(高等科卒業、現在の中3)の頃よりアソビかけの糸分けなど簡単な仕事から手伝いをさせられ、カナくり(カナ糸を糸枠に巻く仕事)なども、なれてくれば手伝わされた。嫁に行く頃には、ハタ織りが出来るようになる人もいた。嫁に行ってからは、姑についてハタ織りを覚え、一家の担い手として姑と共にハタ織りをするようになった。

  このようにして、女性の仕事の一つとして定着していたハタ織りも、昭和30年代を境にいろいろな反物が手軽に手に入るようになると、手順も難しく、時間のかかるハタ織りをする家が順次少なくなり、現在では趣味でハタ織りをしている2〜3人になってしまった。(ちかえ、美恵子、時夫等)

  柏原と同様、ハタ織りの盛んであった山浦地方でもほとんど見られなくなったが、現在も泉野の槻木、原村の八ツ手地区では近くの年寄が集まって、ポロバタを中心にハタ織りが行われている。

  柏原で織られていた布は、木綿を主とした野良着や普段着、絹糸などを使用した晴れ着用の絹織物など、その家の家族構成やその年の必要度に応じた布を織りためていった。

  ハタ織りの布は、巾1尺、長さ2丈8尺を1反として布の基本とした。(尺度は鯨尺、1尺37.9cm、10尺が1丈、建物などは曲尺、1尺30.3cm、1間=6尺)同じ布などは「続き」といい、2反を通して織った。また、帯などは結び方に応じて長さを決めたようである。

  布巾の糸目を決めるのは「オサ」であり、オサは絹糸を織る日の細かい物からポロバタを織る目の粗い物まで、織る糸の種類、太さ、織り方によっていろいろなオサがあった。

  オサ目は、60目(ひとよみ)を単位とし、太い糸用の7よみ(420目)から絹糸のような細かい糸用の10よみ(600目)まで、いろいろな布にあわせてオサを決めた。

  糸の本数は、オサ目を決めるため、6本(6ひず)を一手、10手をひとよみ(60本ひず)として数えられた。そのため、カナより糸枠に巻くときは同じ糸を6つの枠に巻き、それを単位として、いろいろな糸を用意した。また、「縞」(紋様織り)を織るときは、縞紋様に応じた色糸を用意し、一手の中に割り込みを考え、糸の本数を決めて糸枠を用意した。

  縦糸の長さを決めるのに「へ場」を用いた。この作業を「縦糸をへる」といい、ハタ織りの基本であり、もっとも大切な仕事である。この作業ができ、これを「チギリに巻き、アソビ糸をかけ、ハタ織り機にかける事が出来て一人前とされ、相当の年季がかかった。

  木錦糸などは、ハタを織る時「オサ」によりこすれ、毛羽立つ事があるので、モチアワでのりを作り、糊付けを行った。多くは、かな糸の時に糊付けをするが、糸をへてから糊付けをする人もいた。この場合、チギリに巻くとき、糸が糊付きしてしまい、巻きづらいことが多かったようである。

  絹糸は、糸が糊付けされたような状態になっているので、糊付けは不要であるが、織りあがった布はそのままでは使用できず、専門家(紺屋=染物屋)に頼み、布を練ってもらい白布にした。

  ハタ織りは時間のかかる仕事であり、根気のいる仕事でもあった。1反を織るのに紋様のない平織りでも、木綿でも2日はかかり、細かい縞や絹織などは一週間もかかる事があった。

  木綿糸は、白糸をカナのままで大量に仕入れ、用途に応じて色に染め、用いた。絹糸は、自家養蚕の繭を用いて、糸取りの出来る人に頼み、糸を取ってもらった。区内にも糸取りをする人もいたが、他村から頼んできたりする家もあった。また、くず繭から「フトリ」という太目の絹糸を自分の手で紡ぐ人もいた。

  一般の織物は木綿が主であり、絹は晴れ着用であり、特に嫁入前の娘がいる家では、年々織ため、嫁入りの晴れ着などを紺屋に出し、紋様を染めてもらい嫁入りの支度をした。

  1反の布から、女性用の「フンゴミ」なら3足は出来たが、男性用は無理であり、つづき織りの布から5足取るような工夫もされた。また、通常1反の布から着物が一着出来たが、大きい男性の場合は、布巾、長さ等を延ばして織る事があり、小さい女性の場合は、逆に少し小さめに織るなどの工夫がなされたようである。

  昭和になって、いろいろな糸(リング糸、毛糸)が出回るようになると、これらの糸を利用した縞が工夫されたようである。また、絹糸を糸屋で「糸より」をかけてもらい「かべちりめん」を織る人もあった。

  昔は、麻糸を自分で紡ぎ、麻布も多く織られた。そのために、各家々では麻を作る麻畑があった。麻の育ちのよい場所があり、(汐下、馬橋など)多くの麻が作られた。

  ハタ織機は、基本となる部位は決まっているが、作られた時期が作った大きさによっていろいろと工夫され、多少の形の上で違いがある。昭和中期になると「ヒ」を機械的にとばすハタ織り機ができた。この地方では「バッタン」と呼ばれていたが、その数は極めて少ない。また、アソビをかけなくてすむ「金そうこう」もでたが、この地区には全くない。また、複雑な文様を織るために、足踏みが4本、6本とつけた物もあるが、通常は2本を用いて織っていた。

  縞紋様は、各人がいろいろ工夫し、自分独自の縞を作りそれを縞帖に綴った人も多く、縞を見ればどこの家の人かわかるとまで言われたものである。

  縞も、縦糸の縞を織るときの横糸を変えた縞、織り方を変えた縞など多種多様であった。織り方では、クズシ、ナナコ、イチラクなどがあり、足踏みを増やす(アスビかけも増やす)などをして織ったりした。

◎いろいろな織り方

○いちらく(一楽、市楽)

  ・二楽編
   土屋一楽が発明した藤細工の精巧な綾織の編み方

  ・一楽織
   綾織にした精巧な絹織物

○ななこ(魚子織、七子織)

  絹織物の一種
  2本ないし数本づつ並んだ、縦、横糸を平織りに織った物
  織り目が方形で魚卵のように打違いに粒だって見える。
  もとは、縦、横共に7本のより糸で織ったゆわえの名ともいい、羽織などに用いる。
  京魚子、桐生魚子、川島魚子(岐阜)などがある。

○つむぎ(紬織)

  紬糸、または玉糸を織った平織りの丈夫な絹織物

11−2−7.その他

(1)ハギ刈り・ハギつけ

  「ハギ刈り」は、男性と一緒に一人前としてやらされた。ハギは冬の馬の飼料として欠かせない物であり、この地方では大切な仕事である。山の口が開ける(一定の草山を日を決めて刈り始める)と朝早く家を出てよい場所を取る。そして自分の刈った分が自分の物になるから多くの人がいるほうがよいので、女性も駆り出される。朝早くから一日中大変な重労働であった。

  ハギが乾くと、家に持ちかえるのだが、男性が運送で大量に運搬し、合間を見て女性が駄馬で運ぶ事も多かった。「ハギつけ」といわれ、女性が馬を扱うので大変であった。1日に何回も運ぶ事を「おっけえし」といい、女性にとっては大変な事であった。

(2)ゆい

  隣近所や仲間と2〜4人く らいで組を組み、互いの家の仕事をする「ゆい」をよく行った。一人だといやになる仕事も仲間がいると楽しく出来るという知恵のなせるわざである。このゆい仲間はほぼ決まっていたようである。

  仕事は畑の草取り、田の草取り、ヒエ・アワ等のおろぬきなどが主な仕事であった。また、田植えなどは、家対家の「ゆい」でやる事が多かった。

  今と違って、足で歩くので、遠い田畑への行きかえりがたいへんであるため、昼は弁当を持っていく事が多かった。ご飯をメンパに詰め、おかずは小さな入れ物に入れていく。おかずはみそ漬けが主であり、飯にみそを添え、清水をかけ、みそ漬けをおかずにして食べることが多かった。

  ゆい仲間や近くの畑にいる人達が集まっての昼食は楽しいひとときでもあったようである。量はいわゆるあわせメンパ(女性5合メンパ、男性1升メンパ)で、昼と3時の二回の食事をする事が多かった。そのほかに凍りもちなどを持っていく事もあった。

(3)冬の仕事

  冬になると「なわない」をした。ワラ仕事は男性もやった。「穴ぐら」を作ってやった仲間もある。仕事場であると同時に社交場でもあったようである。(幸平氏の前、袈裟記氏の前など)

  女性は夜なべで針仕事をした。自家製の麻糸を用いてコウカケ(大きめの自家製足袋の裏と表を麻糸で刺子にし補強し、わらじをはくとき用いる)を刺したり、テボッカ(自家製の布の手袋に刺子をし山仕事に使う)を刺した。

  自家製の麻糸などを作るために麻を作る畑を各家々でもっており、これを麻畑といい、上の棚、馬橋、汐下など麻がよく育つ場所に多くあった。

(4)開墾

  戦前、戦中にかけ、開墾が行われた。一家に4升まきくらいの区有地を割り付け畑にした。4年毎に分け、作れない家は権利を放棄した。分家(新家)に出ると、分け替えの時に権利が生じた。山桑比良、宝蔵、ゴウジロなどがそれに当たる。

(5)山の口

  区有林・原野の開放日を山の口といい、その日が過ぎると山の口が開けるといい、区民誰でも利用する事ができた。
  ・草山の山の口
     夏草の山の口 7月1日
     秋山の山の口
        麦草など入りの山 9月1日
        前山 9月20日
        全山 10月1日
  草刈りの良い場所を取るため、事前に下見をしておき、前日の夜10時ごろ家を出て自分の決めた場所で日が変わると夜中から刈り出すような事もあった。
  また、草が不足するときは、佐久や北大塩より草山の権利を買い、草刈りをした事もあった。
  ・水掛けの山の口 6月初
  ・カツチキ山の山の口 6月1日
  山からカツチキを刈り取り、それを田にひいて家に帰るのが通常であった。時にはウルシにかぶれて困った事もあった。
  ・カヤ刈りの山の口 11月10日 区内全山
  炭俵用のカヤ、屋根用のカヤ等、どの家でもカヤを必要としたので、カヤの量をなるべく平等に分配するため山の口より5日間は1日2段まで、刈り置きはいけないなど決められていた。

(6)出払い

○区内の主な出払い(現在でも行われているものも有り)

  汐上げ
  作場の道作り
  県道の道作り2日 総出払い
  草山の道作り 夏草 ハギ刈りの前 の2回
  野火付け 東 西 2回 人別で
  カヤ山の道作り
  廻り先 区内の種々の仕事を順番にて行う

○出払いの人員(現在は無い)

  人別(総出払い)
    学校下がり15歳〜60歳までの男子全員

○戸別

  一軒1人 戸主
  出払いは通常弁当持ちで1日を原則とする。

○当役の見回り

  1回目 仕事をする人数の確認(出欠の確認)
  2回目 仕事の完了の確認
       難所の場所へは酒1升と肴代を出す
       (橋かけ、大石の取出しなど当役との交渉による)

 遺跡保存会では、現状のままでは柏原の昔についてのことが薄れ、忘れ去られていくのではないかお危惧しました。高齢者のみなさんに幼少の頃とかまた見聞きしたことなどお話をしていただき記録しておけば柏原の文化遺産として残していくことができるのではないかと考え、平成8年11月27日「柏原の昔を語る座談会」第1回目を、続いて9、10、11、12、13年にわたりお話をいただきました。

           出席者(生年順・敬称略)

北沢正一(明治40年)
篠原弥造(明治43年)
両角明夫(大正 2年)
守矢奥次(大正 3年)
篠原省吾(大正 5年)
両角袈裟記(大正 6年)
両角磯夫(大正 6年)
両角正実(大正 7年)
両角条一(大正 9年)
篠原一登(大正 9年)
両角豊晴(大正11年)

両角さくゑ(大正 8年)
両角弥生(大正 9年)
篠原婦美恵(大正 9年)
両角けさみ(大正 9年)
両角ふ美枝(大正13年)
篠原ちかゑ(大正14年)
 
 
 
 
 

 出席者のお話についてでき得る限りそのままの言葉を間違いのないようにと心がけてまとめあげました。話し言葉なので記録するのに聞き取りにくかった部分・不明な点など後日お尋ねしたり、また、何回か見直しをし、記録上の間違いのないよう努力しました。 明治から昭和初期にかけての柏原特有の生活の様子や貴重な体験をわかりやすくお話していただき、残すことができ本当にありがとうございました。

 また出席者で故人となられました方に対し、ご冥福をお祈り申し上げるとともに厚くお礼を申し上げます。