11−5.柏原の講・祝神

 平成5年に柏原の稲荷講・祝神を中心に委員会にアンケートをお寄せいただきました。
 区内には多くの講があることがわかりました。また、アンケートでいただいたもの以外にも多くの講があることもわかりましたので、アンケートをもとに講についてまとめました。

11−5−1.区内に祭神のある講・祝神

T稲荷講

 稲荷は稲荷大明神、即ち伏見稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。
 この神は一切の食物をつかさどり、稲の成育豊穣を守護してくれる神様である。
 わが国は古くから農業国で、米を主食としていたので農耕神に対する信仰が深く、それが稲荷信仰と結びつき、狐を使者とする田の神の信仰を背景として広く伝わった。
 柏原に於いてもこの信仰が強く、区内の各戸のほとんどがいずれかの講に属している。
 なお、講中組員は調査当時のものですので、多少の変動があると思います。

1.名称 両角稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 越道山 No1
・講中名 両角 博   両角 袈裟記   両角 直幸   両角 柳爾
両角 正作
・沿革
・行事 以前は初午と二百十日を期に講中が集まり参拝をして懇親会をしたが、現在は年1回の行事となる。
御柱年には講中家族全員にて御柱祭を行う。
・資料
2.名称 稲荷神社
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 竹原 両角清英宅裏畑 No2
・講中名 両角 太郎   両角 良子   両角 清英   両角 邦夫
両角 正彦   両角 一太郎   両角 卓   篠原 恭吾
両角 国見   両角 正久(休)   両角 茂一(休) 両角 きみ子(休)
・沿革 発足不詳
昭和20年まで講金あり。これを貸し付けていたようだ。
・行事 古くは毎月のように無尽を行い、講を開いていたと思われる書類あり。
現在は初午と二百十日にお日待を行い、御柱年には二百十日をかねて御柱を建てている。
・資料 無尽を行っていた頃の関係書類
日待・御柱祭の入費帳綴り
3.名称 両角大稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 駒方 両角正実宅東 No6
・講中名 1の組
両角 誠一   両角 伝郎   両角 武人   両角 徳雄
両角 秀男   両角 明博   両角 継男   両角 久平
2の組
両角 一   両角 時夫   両角 正三   両角 喜代一
両角 一市   両角 千寿子   両角 光明   両角 忠一
3の組
両角 喜平   両角 清幸   両角 幹男   両角 克子
両角 英吉   両角 勝   両角 才一   両角 市太郎
両角 久一   両角 良久   両角 昇   両角 忠吾
4の組
両角 高三   両角 正実   両角 定雄   両角 新重
守矢 藤吉   守矢 たつゑ   両角 準一   両角 源明
両角 源兵衛(休)
5の組
両角 健身   両角 平重   両角 和吉   両角 桂視
両角 亀内   両角 杉衛門   両角 幾三   両角 芳一
両角 忠次   両角 和文   両角 きえの(休)
・沿革 両角大稲荷は氏神として古くより祭られて今も講中の人のよりどころとしている。
毎年二百十日にお祭りを行っている。
社内の石祠(天文3年)燈篭(明治2年)石囲い(明治30年)幟立(明治7年)のきざみ込みがある。
無尽帳は文政・天保より記述があり、現在まで続いている。
・行事 初午日待・御柱小宮祭
・資料 無尽帳・講中氏名帳
・その他 両角稲荷講中の守矢市は宮元のため、昔より講中になっていると聞いている。
4.名称 北澤稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 山の神両角みち子宅東 No7
・講中名 北澤 金郎   北澤 伴郎   北澤 朝男
・沿革 神様の石祠を作ったのはいつころか不明だが、汐の出来る以前に奉った物と思われる。
所在の川の場所が参道だったが、汐が出来たために汐の端の道が参道になっているが今は通れない。
石祠の前の右側石柱が風化して作り直した形跡がある。昔の事で不明だが、風化した石の柱は祠の横にある。
現在は伴右衛門他一名となっているが、朝男の家とどちらが新家か本家かは不明である。
・行事 毎年正月にしめ飾りを作る。また、御柱祭ごとに鳥居を作り御柱を建てる。
・資料 資料はないが、先祖よりの言い伝えで屋敷の上に祭ったとのことだ。
5.名称 両角稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 寄 柏原神社横汐上 No9
・講中名 両角 久一   両角 明博   両角 勝郎   両角 ちどり
両角 一典   両角 一平   両角 勝夫   両角 睦郎
両角 昭二郎
・沿革
・行事 年1回、家内安全を兼ね、稲荷講を行い、御柱祭も行う。
・資料
6.名称 両角稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 溝口 両角幸八宅裏 No10
・講中名 両角 是一郎   両角 英男   両角 智幸   両角 幸八
両角 あけみ
・沿革
・行事 年1回御日待を初午の日に行う。
・資料
7.名称 北澤稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 苗間 両角幾三宅裏 No11
・講中名 上組
北澤 一夫   北澤 晴雄   北澤 条平   北澤 寅男
北澤 一雄   北澤 吉吾   北澤 一元   北澤 良雄
北澤 朝男   北澤 源春   北澤 平八郎 北澤 粛正
下組
北澤 一男   北澤 喜三   北澤 一平   北澤 昭八
北澤 伴郎   北澤 金郎   北澤 婦志乃   北沢 俊一
北澤 久   北澤 健一   北澤 源吾
・沿革
・行事 初午と二百十日には家族全員公民館に集まりお祝いをする。御柱の年は御柱を立替、盛大に祝いをする。
・資料
8.名称 北澤稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神 弁財天
・所在地 上ノ棚 柏原霊園南 No12
・講中名 北澤 隆男   北澤 豊   北澤 磯吉   北澤 龍郎
・沿革
・行事 2年に1回くらい祝いに御日待を行う。
御柱年に鳥居と御柱立替えを行う。
・資料
9.名称 篠原稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 戸尻川 篠原弥造宅裏 No13
・講中名 篠原 弥造   篠原 淳朗   篠原 弥寿夫   篠原 実冶
・沿革
・行事 20年くらいまでは初午と二百十日の2回稲荷講を行ってきたが、現在は年1回12月に講を行っている。
御柱年には鳥居と御柱の立替えを行い、併せて講を行う。
・資料 資料は88年前の火災で焼失。
10.名称 両角稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 宮ノ木 両角勝平宅裏 No14
・講中名 両角 明夫   両角 好道   両角 元一   両角 幸重
両角 真重   両角 英雄   両角 仁司   両角 源太郎
両角 邦二   両角 喜久次   両角 勝平
・沿革
・行事 毎年初午、二百十日に稲荷社に参拝し、御神酒を捧げ、豊作と家内安全を祈る。元旦にお参りをする。
御柱年は一同参集して御柱を建てる。
・資料 講中名簿、行事の記録
・その他 分家の集合体
11.名称 篠原稲荷
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 新井 両角好道宅西 No15
・講中名 篠原 省吾   篠原 一登   篠原 銀一   篠原 今朝松
篠原 昇平   篠原 幸平   篠原 松男   篠原 鼎
篠原 まき子
・沿革
・行事 毎年1回初午のとき一同が集まり、お参りをして懇親会をする。
御柱の年は、鳥居と御柱を建て懇親会をする。
・資料
12.名称 祝神様
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 狐原 狐原十字路 No3
・講中名 両角 公明   両角 正紀   両角 伸一
・沿革
・行事 初午の日、二百十日(9月1日)御柱の年は5月まわり順で、その年によって上記の日にその家の都合で年1回づつ集まってお祝いする。
・資料
13.名称 稲荷講
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 狐原 No5
・講中名 両角 隆博
・沿革
・行事
・資料
14.名称 稲荷講
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 寄 北澤豊宅西 No8
・講中名
・沿革
・行事
・資料
15.名称 稲荷講
・祝神 正一位稲荷大明神
・所在地 狐原 No4(平成6年10月 新井2798より移転)
・講中名
・沿革
・行事
・資料

 U愛宕講・秋葉講

  京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕山に、山岳信仰の神として愛宕権現が祀られている。愛宕山は鎮火の神として信仰され、各地に愛宕講がつくられた。
  秋葉神社は静岡県春野町の秋葉山に火之迦具土神が祀られ、昔から防火・鎮火の神として庶民の信仰を受け、各地に秋葉講がつくられた。
  柏原にも火ぶせの神として講が作られた。

1.名称 愛宕講
・祝神 愛宕権現
・所在地 横道 両角英雄宅前 No1
・講中名 両角 誠一   両角 伝郎   両角 武人   両角 徳雄
篠原 庄司   両角 久蔵   両角 一市   守矢 馬之助
両角 忠一   両角 光明   守矢 弘幸   両角 正三
両角 英雄   篠原 松男   両角 喜代一
・沿革 起源は不明であるが、明治年間、下部落に大火が発生、12戸が全焼する。これを期に火伏せの神を祭り、愛宕講を開く。
 明治36年1月9日 定めを改め
  @日待ちは毎年壱期にて1月24日の事
  A神酒は貸金利子及び当番組合において負担等
講中29名入講者があり、37名まで増大したときもある。昭和31年より宿を廃止し、公民館にて愛宕講を開く。小宮祭の復活。
昭和42年 県道拡幅のため、現在地に移転。
・行事 毎年愛宕講日待ちを開き、講中の親睦を図る。7年ごとに御柱祭を行う
・資料 名面帳
2.名称 愛宕様
・祝神 愛宕神社 秋葉神社
・所在地 越道山 篠原一登宅裏 No2
・講中名 越道中
・沿革 愛宕山 銘 石祠 寛政六甲寅十二日建之(1794)
寛政年間 石祠一基
秋葉神社 石碑一基 明治三十年建之
・行事 越道中にて小宮祭を行う
・資料 小宮祭入費帳
3.名称 愛宕講御日待
・祝神 愛宕神社
・所在地 原 篠原権一郎宅前 No3
・講中名 北澤 寅男   北澤 条平   北澤 晴雄   北澤 一夫
北澤 豊   両角 代吉   両角 和文   両角 帯夫
両角 新重   北澤 粛正   両角 孝次   篠原 権一郎
両角 吾人   守矢 たつゑ   両角 みち子
・沿革 寛政六甲寅11月吉日 愛宕山講中
・行事 年に一度当番の家で宴会をする。御柱の年は権一郎様の家でする。
・資料

V山之神

  山之神の祭神は大山祇命(おおやますみのみこと)か木之花咲耶姫である。この神は、農民の間では春里に下って田之神となり、豊穣をもたらす神で、秋収穫が終わると山へ帰り、山之神になるといわれていた。また、山村に住む人々の山仕事の安全を守る神としての信仰もあった。
  柏原の山之神は後者の意味合いが強いと思われ、山に多くの石祠が見られる。

1.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 越道山 篠原一登宅裏 No1
・講中名 篠原 権一郎   篠原 丈夫   篠原 寿久   篠原庄司
篠原 保之助(故)   越道中
・沿革 篠原氏銘入 石祠一基 年代不明
石燈篭一基 文政二年建設(1819)篠原氏四名と越道中の名あり
古い石祠一基(篠原稲荷混在)
・行事 篠原氏と越道中にて小宮祭を行う。
・資料 文政元年戊寅(1818)同七年甲申以降の小宮祭諸入費帳等
2.名称 大日向山の神
・祝神 山の神
・所在地 大日向 大日向水源上 No3
・講中名 篠原 庄司
・沿革 江戸末期に設置との事
・行事 新年のしめ飾り 御柱建替え
・資料
3.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 扇ノ沢 No2
・講中名
・沿革
・行事
・資料
4.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 持栗沢 西板場わかされ No5
・講中名
・沿革
・行事
・資料
5.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 山桑比良 山桑比良道入口東 No4
・講中名
・沿革
・行事
・資料
6.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 入八坪 本道山乃神 No6
・講中名
・沿革 享保13年4月吉日(1728)
・行事
・資料
7.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 石小屋 白樺湖音無荘南 No8
・講中名
・沿革 文政九丙戌天六月十七日(1826)
・行事
・資料
8.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 琵琶石 風穴の久保 No7
・講中名
・沿革
・行事
・資料
9.名称 山の神
・祝神 山の神
・所在地 車山 天狗の久保 No9
・講中名
・沿革 寛保元年辛酉四月 日
・行事
・資料

W水神(弁財天)

  水神様はだいたい川や湧き水のほとりに祀られていて、たいていは弁財天が主神になっている。
  神道からいうと水をつかさどる神様は宇迦神(うがのかみ)でそれに仏教の弁財天と習合されたのが水神である。
  柏原には弁財天と水神がある。

1.名称 弁天様
・祝神 弁財天
・所在地 戸尻川 両角源明宅西 No5
・講中名 両角 源明
・沿革 天正十二年三月 両角源右衛門氏が建立
・行事 正月 小正月 二月の行事にお供え物を行う。
・資料
2.名称 弁財天
・祝神 弁財天
・所在地 上ノ棚 柏原霊園南 No4
・講中名 稲荷講 8北澤稲荷と同じ
・沿革 8北澤稲荷と同じ
・行事 8北澤稲荷と同じ
・資料
3.名称 弁財天
・祝神 弁財天
・所在地 蓮井沢 薬師林 両角光明田東 No2
・講中名 両角氏
・沿革 昭和8辛卯年6月吉日
・行事
・資料
4.名称 水神 不動尊
・祝神 水神明王 大日大聖不動尊
・所在地 寄 北澤さち子宅ハギヤ横 No3
・講中名 耕地中
・沿革 明治21年5月1日
・行事
・資料
5.名称 水神
・祝神 水神宮
・所在地 宮ノ木 消防屯所裏 No6
・講中名
・沿革
・行事
・資料
6.名称 水神
・祝神 水神宮
・所在地 越道 下越道 No1
・講中名
・沿革
・行事
・資料
7.名称 水神
・祝神 水神明王
・所在地 虫倉の屋根 No7
・講中名
・沿革
・行事
・資料
8.名称 水神
・祝神 水神様
・所在地 虫倉の屋根 No8
・講中名
・沿革
・行事
・資料

X祝神

区内には前記以外に種々の神を祀った講が多く見られる。

1.名称 篠原の祝神
・祝神 不明
・所在地 越道山 篠原一登宅裏 No4
・講中名 篠原 寿久(元)   篠原 権一郎   篠原 丈夫(分)   篠原 重明
篠原 庄司(分)   越道12戸(昭和年代に加入)
・沿革 篠原寿久 篠原権一郎 篠原重明(保之助の孫)が元家で、江戸末期篠原庄司が分家加入。
昭和20年代に篠原丈夫が分家加入した。昭和年代に越道12戸が加入。
・行事 新年の参拝 御柱祭を行う。
・資料
2.名称 守矢神社
・祝神 不詳
・所在地 駒形 守矢睦雄宅裏 No9
・講中名 守矢 藤吉   守矢 尭   守矢 立平   守矢 幸誠
守矢 芳雄   守矢 奥次   守矢 弘幸   守矢 馬之亮
守矢 幸彦   守矢 よし子
・沿革 不詳ではあるが、紋が「矢違正」で守矢神長官の系統を引くと聞く。
・行事 年一度二百十日の祭、7年に一度の御柱祭
・資料 守矢眞幸(神長官)直筆の「守矢神社」の軸がある。
3.名称 北澤神社
・祝神 不明
・所在地 大口 北澤粛正宅東 No11
・講中名 北澤 一夫   北澤 粛正
・沿革
・行事 年に一度両家家中にてお祝をする。御柱祭を行う。
・資料
4.名称
・祝神 弁天神(べティジン)宗良親王
・所在地 原 野島竜太宅入口道南上 No14
・講中名 両角 正三   両角 英吉
・沿革 宗良親王 山鹿神社合祭 天勲大平神 正平二守六日と石像に刻字あり。
  親から聞いた話。
  昔、家の先祖が北佐久郡南平大河原峠の山へ炭焼きに行き、宿を取っていた。毎晩のように夢を見て眠られず不思議な事と思っていたところ、ある朝炭木を背負って弁天神川のほとりを通ると、「宗良親王様」の姿像が目に付いた。早速拾って、大きな木の切り株の上に奉じて大切に尊んで家から珍しい物が来ると神前に供え尊んでいた。
  南平の山を下りる時、家へお連れして、原の畑家に祭り、弁天神渡場で拾ったので弁天様といった。
  柏原の村の皆様も弁天神様は、とても子供の夜泣きを止めてくれてありがたいという事で、御宝銭やおひねり等を沢山供えていたようです。
  昔は祠だけであったから、湯川の人が盗んでいき、約20年くらいその家にいたが、その人が亡くなって、湯川の「オセバぶち」にぶち込み捨てた所、その家の人が病気になったりしたので、オセバぶちより拾い上げてもらった。
  その後、机木の「ミヨケン」へ行き、何年くらいいたかわかりません。
  家の父親と国平さんと二人で行って、御礼をして貰って来て再び原へきた。英吉さん(新家)家と2軒で祠に家を新築してやった。
・行事 年1回 御祭りをして祝をしている。
・資料
5.名称 屋敷神 鎮守神
・祝神 南霊神
・所在地 原 両角高夫宅裏 No10
・講中名 両角南夫家内一同
・沿革 約200年前現在地に屋敷を拓いた時か、その後かははっきりしないが、屋敷の魔を除き、家族の安泰を祈って建てたとのこと。
・行事 正月行事(注連縄 御供餅 御神酒などの御供物)
年間の拝礼 御柱年の御柱建立
・資料
6.名称 氏神
・祝神 両角和吉家氏神
・所在地 原 野島竜太宅裏 No15
・講中名 両角和吉
・沿革
・行事 御柱年の行事
・資料
7.名称 駒形
・祝神 八幡様
・所在地 駒形 両角定雄宅西 No8
・講中名 両角 昭二郎   両角 睦郎   両角 徹郎   両角 国見
両角 善太郎
・沿革
・行事 初午 御柱祭
・資料
8.名称 天照皇大神
・祝神 天照皇大神
・所在地 木戸脇 両角豊晴宅西 No17
・講中名 両角 豊晴   両角 磯夫   両角 兼次   両角 公明
両角 仁蔵   両角 勲   両角 古人   両角 孝次
両角 高夫   両角 みち子
(両角 覚一   両角 ゆくの(故)は現在は休み)
・沿革 何時のころか不詳だが、木戸先にある和泉内膳正が「天照皇大神」をこの地に祭り、両角氏の祝神とされた。この両角講は稲荷様の講中の仲間になっていない。
・行事 毎年2月28日を縁日として講中が集まり御日待ちを行っている。御柱年には講中全員にて御柱祭を行う。
初午、二百十日等の御日待ちは行わない。
・資料
9.名称 八王子講
・祝神 八王子神社
・所在地 キツダ畑 原小路外山汐橋たもと No12
・講中名 両角 喜平   両角 才一   両角 英吉   両角兼次
篠原 一登   両角 代吉   北澤 豊   両角 孝次
北澤 一夫   両角 高夫   北澤 寅男   北澤 晴男
両角 平重   両角 清英   両角 好道   篠原 権一郎
両角 みち子
・沿革
・行事 6月28日  日待
・資料 八王子講連名帳 明治三十三年六月二十八日講中
10.名称 和泉内膳正神霊
・祝神 和泉内膳正
・所在地 木戸脇 両角直二宅木戸 No18
・講中名 両角 豊晴   両角 磯夫   両角 兼次   両角 公明
両角 仁蔵   両角 勲   両角 吾人   両角 孝次
両角 帯夫   両角 みち子
(両角 覚一   両角 ゆくの(故)現在は休み)
・沿革 この和泉内膳正といわれる方が天照皇大神様を現在地に祭り、両角講中の祝神とされた方だといわれている。
・行事 毎年7月5日に歓喜院の御施餓鬼に永代施餓鬼をしてもらっている。
・資料
11.名称 天神様
・祝神 菅原道真 天神様
・所在地 横道 両角袈裟記宅裏 No2
・講中名 両角 袈裟記   両角 正作
・沿革
・行事 御柱祭を行う
・資料
12.名称 大黒様
・祝神 大黒様
・所在地 越道山 篠原一登宅裏 No5
・講中名 篠原 省吾   篠原 一登
・沿革 明治末年に祀る
・行事 小宮に御柱を建てる
・資料
13.名称 金神様
・祝神 金神様
・所在地 内クネ 上の畑 No7
・講中名 両角 仁蔵
・沿革 大正7年4月吉日(1918)
私宅で増築(改築)を行った際、祈祷師に祈祷して貰った所、その方向に金神様という強い神様がいることがわかり、祈祷師により、その神様を上の畑に移転し、これを奉ったと伝えられている。
・行事
・資料
14.名称 御嶽神社
・祝神
・所在地 大柏木 松尾福一宅北 No20
・講中名 両角 勝(両角 袈裟重)
・沿革 両角吉之丞(勝の曽祖父)が農業の傍ら行者となり御嶽山登山連続33度行い、昭和3年自分の畑に記念碑として建立する。行者地位 中講議
・行事 2〜3年毎に宮司に依頼して拝んでもらう。
・資料
15.名称 中講議明吉霊神
・祝神
・所在地 山の神 虫倉入口 No21
・講中名 両角 勝
・沿革 両角吉之丞死去後、長男勝右衛門が父のための霊神塔として昭和4年9月10日建立
・行事
・資料
16.名称 天満宮
・祝神
・所在地 寄 柏原神社 No16
・講中名
・沿革
・行事
・資料
17.名称 天満宮
・祝神
・所在地 寄 柏原神社 No16
・講中名
・沿革
・行事
・資料
18.名称 小天ゴン
・祝神 立科山の小天狗
・所在地 寄 横汐・持栗川出合 No13
・講中名
・沿革
・行事
・資料
19.名称 ホオソウ神
・祝神 ホオソウ神
・所在地 横道 両角千寿子宅前 No4
・講中名 両角 千寿子
・沿革 明治41年に両角作右衛門がホオソウを病んだのでその祝神の祠を建てる
・行事 御柱年に御柱を建てて祀る
・資料
20.名称 木戸のノノサマ
・祝神 (南無妙法蓮華経)
・所在地 向畑 両角清近宅木戸先 No2
・講中名 両角 清近
・沿革 明和年間の作ではないかと思われるが明確でない。
・行事
・資料
21.名称 おかん
・祝神 おかん
・所在地 狐原 No6
・講中名 両角 時夫
・沿革
・行事 7年に1度御柱を建てる
・資料
22.名称 不明
・祝神 不明
・所在地 宮ノ木 両角直幸ハギヤ跡西 No9
・講中名
・沿革
・行事
・資料

VIまとめ

1稲荷講
2愛宕講
3山の神講
4弁財天講
5水神講
6そのた祝神講
 @氏神
 A弁天神(ベンテイジン)
 B八幡様
 C天照皇大神講
 D八王子講
 E神霊・霊神
 F天神・天満宮講
 G大黒様
 H金神様
 I御嶽神社
 J小天ゴン
 Kホオソウ神
 L木戸のノノサマ
 Mおかん
 N不明
15講
3講
9講
3講
5講
22講














11−5−2.区内に祭神のない講

1.荒神講

  荒神とは、カマドの神であり、火の神でもある。この神様を信仰することによって、家内安全・無病息災を祈り家族の安泰を願ってきた ものである。
  はじめは、荒神を信仰する人達が集まり、祭主があり、その祭主が信仰者の各家庭を巡回し、荒神を切って歩いたらしい。
  荒神信仰の起源については記録もなく判然としないが、柏原における神信心の過程から考えると、明治初期ではないかと思われる。その理由付けの一つとして、柏原には江戸時代後期より木曽御嶽山御嶽神社を信仰し、山岳修行を行った行者と呼ばれる人達が十数名いたという。その人達によって「荒神」が柏原に取り入れられたのではないかと思われる。
  まず、名前が見えてくるのが両角初右衛門である。初右衛門が各信者の家庭を回り、荒神を切って歩いたという話しを子孫の方から聞くことができた。
  その後、祭主は守矢与左衛門に引き継がれていった。この人は昭和5年木曽御嶽における修行を行い、村内(柏原)に御嶽山日待並荒神日待の講を興し、講員を募っている。この時柏原では116戸の家庭が荒神日待に加入している。その他にも北山村湯川46戸、芹ヶ沢16戸、糸萱2戸、米沢村塩澤39戸、北大塩27戸、湖東村金山5戸、上伊那郡内藤沢村、三義村、伊那里村、美和村等にも加入者が見られる。その後、昭和10年荒神祭人名帳2月20日によると柏原における講人数は変わりないらしく記入がないが、その他の地区の信者については記入がある。
  昭和22年と前書きした柏原名簿があるが、この時は25戸に減っている。この時期に柏原の荒神講に大きな変化があったものと思われる。
  このころ、守矢与左衛門氏の所で泉野の富田義男氏が一緒に修行をした記録が残っている。また、村内の人の話によると、井上という人が、この前後に柏原に来て荒神を切っていたとの詰もある。井上氏の講が何時途切れ、その後を守矢、富田いずれに属したかはわかっていない。
  また、昭和15年にそれまで高野山において修行してきた両角り志が不動協会(財)に認められ、生地(柏原)にお堂を建立した。そして荒神を切って歩くようになった。
  そこでおそらく守矢氏、富田氏、両角氏三氏が話しをし、それぞれ講員を募り、結果、守矢氏の講員の減少となったのではないかと思われる。記録のあるのが守矢氏だけで他の二氏の記録が残っていないので講員数のわからないのが残念である。
  その後はこの三氏により昭和30年代後半まで続いたのであるが、相変わらず講員が一同に集まることはなく、祭主が各家庭を回り荒神を切っていた。
  やがて、この祭主も年を重ね、歩く事も出来なくなり、後縦者もおらず、昭和40年代には自然消滅的に姿を消していく事となった。しかし、昭和51年になり、かつて御嶽山において修行し行者となった人の子孫である篠原喜重氏が発起人となり、柏原に荒神講を再興することとなる。この時は、講員数名にて再興され、祭主に八ヶ岳の赤嶽に祀られる赤嶽神社の祭主である泉野の富田有義氏をお迎えした。
  その後、講に加入する家が増え、現在は38戸を持って荒神講日待が行われている。
  この「講中規定」には次の様な事が決められている。

 ○この御日待講を荒神講御日待講という
 ○荒神様を信じ、火の用心、家内安全を祈るを以って目的とする。
 ○講員は信心者を以って組織する。
 ○この講に左の役員を置く。当番二名を置く。(昭和55年より3名とする。)
 ○当番は廻り番制として番地順とする。その年度1年間の世話をすること。
 ○会費は会費制として左の通りとする。祈祷料700円(平成6年度より1000円)御神酒代300円、六三除け500円(希望者)交通安全500円(希望者)
 ○事業は神主さまを頼みて御日待をなし、その後にて直会を皆にもてなし、御札を分かちて散会する事。
 ○御日待の挙行の日は正月22日として毎年同じ日に行う事
 ○加入脱退は自由にする事。 昭和62年1月22日
    協議事項 公民館の荒神様を毎年講中にて心配していく事とする。

  この様に決められ、現在も祭主として赤嶽教教主富田有義氏をお迎えし1月22日公民館においてお日待を行っている。
  講中は38戸である。

2.戸隠講

  長野県下水内郡戸隠村に在する戸隠神社にかかわる講中である。戸隠神社は奥社、中社、宝光社の三社があり、柏原の戸隠講は、この内の中社系と宝光社系の2講がある。

  中社系の講中には2組あり、お札を講中に配布する代表者は、北澤俊一氏、両角善太郎氏の2氏である。両氏にいろいろと尋ねたが、始まり、由来はわからないとのことである。この2氏の所へお札を授ける中社の神官(衆長)は藤井筑摩氏であり、同一人よりお札を送付して来ている。これがなぜ2家にわかれているのかはっきりしていない。なお、お札代は現在700円とのことである。
  北澤俊一氏系講中6戸
  両角善太郎氏系講中18戸

  宝光社系のお札を配布する代表者は両角徹郎氏である。神官(衆長)は諏訪雅彦氏であり、昭和30年代前半までは、お札を両角氏宅に持参していたとのことである。その折はごちそうを作り歓待したとのことである。しかし、諏訪氏本人が来るのではなく、代わりの人が来ていたようである。当時は講中一戸当たりお米一升を供えお札代としていた。お札を持参した人がそれを袋にいれ持ちかえったという。この講中には大札、小札の2種類があり、大札にはおみくじがついている。お札代は大札600円小札400円であったが、現在は大札1000円小札700円となっている。
  講中26戸

3.金桜神社 御嶽講

  山梨県甲府市御岳町にある金桜神社を信仰する人たちの集まりである。記録によると、大正12年講中より代参人5名を選出し、大祭の日に金桜神社に参拝し、お札をいただいて帰省している。(これが始まりであるかどうかははっきりとしない。それ以前もあったのではないかと思われる。また、講がどのようにして出来たかは今では判然としない。)それ以後、戦時中も欠かさず代参を行い、現在に至っている。

  講中日待は、昭和29年まで代参人一番の家に講中が集まり、日待を行っていた。昭和30年より公民館を使用し日待を行うようになった。日待の費用は代参人の家で日待を行っていた頃は代参人が支出していたのであろうと思われるが記録がないのではっきりとはわからない。お札はおそらく講中各自が支払っていたと思われる。
  昭和29年目待の折、次のようなことを決議している。
  一、日待ち宴会は公民館を使用すること。
  一、代参人は5名とする
  一、酒5升を用意する。そのうち2升は代参人が用意し、3升は講中割とする。
  一、煮しめは半数用意すること
  一、代参人は煮しめを用意すること
  日待宴会の煮しめは講中を上組、下組に2分し交代にて当番を相務める。これは、昭和30年より昭和46年まで続き、昭和47年より上組、下組をそれぞれ2分割し計4組とした。昭和50年より4組の内1つの組が煮しめ当番に当たるようになり、現在もこれが続いている。なお、代参人が煮しめを持参するのは以前と変わりなく続けられている。
  代参人の大祭への参拝
  昭和の初めは、4月11日より3日間の1日を代参日に当てた。(大祭日の内1日)その後、昭和29年より4月21、22日が大祭の日となったのに伴い4月21、22日のいづれかの日に参拝とお札を受けており現在に至っている。
  昭和23年頃まで(戦争前後5、6年)は5月に代参をしている時期もある。また昭和43年以前には4月11日より26日(大祭日でない日)の間に代参を行ったこともあった。それ以後、昭和43年より現在まで4月21日、22日のいづれかの日(大祭開催中)に参拝をしている。

  お札の移り変わり
   昭和32年までのお札代は判明しない
   昭和33年より39年までお札1枚  20円
   昭和40年                30円
   昭和41年より44年まで       50円
   昭和45年より50年まで      100円
   昭和51年より53年まで      200円
   昭和54年より55年まで      300円
   昭和56年より60年まで      500円
   昭和61年より平成9年まで    600円
     (この間に500円にてお札をいただく年が数年ある)
   平成10年より           1000円


 講中の移り変わり
   昭和29年  55戸
   昭和58年  34戸
   平成 8年  29戸
   平成 9年  28戸