諏訪と丸子を結ぶ国道152号線(通称大門)は、かって中山道と甲州街道を結ぶ山沿いの物資輸送路であ
った。白樺湖はこの街道沿い、標高1416mの高原に位置する。昭和初期までこの辺り一帯は(池ノ平)と呼ば
れる草原地帯で、この地に源を発する音無川が中央を流れ、また随所に蓼科山の伏流水が湧き出て湿原をなしてい
た。後に遺跡が発掘され、先住民が暮らしていたことがわかるのであるが、当時は街道南麓の農村の青年たちの格
好の運動場だった。
池ノ平を経由し、街道沿いに茅野方面に流れ下る音無川は、地域一帯500f余りの水田を潤す貴重な農耕用水
でもある。山からの水だけに澄んでいるが、その水温は平均8℃、盛夏でもわずか14〜15℃にしかならない。穂
をつけるのに25℃以上の温度を必要とする稲にとって水の冷たさは致命的だ。用水取り入れ口の稲は常に冷害に
さらされ、実を結ぶことなく青立ちしてしまう。この地域では、この「水口立ち(みなぐちだち)」現象が田毎に
毎年繰り返され、水田全面積の実に3分の1が収穫不能となっていたのである。「音無川を堰堤でせき止め、池ノ
平を温水用の溜池にする」という発想は、そうした実情を憂えていた地域農民たちに、かってない大きな夢をもた
らしたのだった。
草原を貯水池にするという突拍子もない大事業が国、県の採択を得、国庫補助による県営工事として実際に
始まったのは、1940(昭和15)年。農民たちが温水溜池建設を目的に「池の平耕地整備組合」を結成してか
ら3年目、県や国への度重なる陳情と井戸掘りの繰返しによる地道な地質、岩盤調査がようやく実を結んだのだった。
調査に訪れた農林省の技師を現地へ案内するにも馬に乗せて、という時代である。資材や土砂を運搬輸送をする
手段はトロッコ、堰堤の土盛りをはじめあらゆる工事は人力が主力、作業員は何人いても足りない。その上、着工
後まもなく日本は第2時世界大戦に参戦、作業員不足で建設の進行が危ぶまれた時、青年道場が県のはからいで車
山山麓に置かれることとなった。道場に寄宿した青年たちの昼夜分けぬ労働により、建設は着工から4年ようやく
80%までこぎつけた。ところが、戦争による急激な物価高騰と、若者たちの戦地への動員により、工事はどうに
も立ちゆかなくなってしまったのである。1944(昭和19)年県から工事中止が通達される。もはや万策尽き
たかと思われた。
しかし、それであきらめる地元ではなかった。総工費の35%は地元負担として既に借入れが発生している。こ
のままでは金も今までの苦労も水の泡だ。池の平にも工事の傷跡だけを無惨に残すことになる。中心となって事業
を推進してきた柏原区では、区有財産である山の材木を売り尽くすことで財源を確保。性別年齢を問わず150戸
の区民全員が工事に携わる体制を敷き、県に代わって工事を続行したのである。
温水溜池が竣工したのは1946(昭和21)年。全長102mの堰堤から流れ落ちる水は、溜池で充分に
温められた上澄みである。従来を7〜8℃も上回る平均水温が確保され、盛夏には、25℃にまで上昇する。水田
の水口立ちが解消されてのは言うまでもない。それどころか、今では「水口から実が入る」のが、この地域での常
識だという。これにより柏原一区のみでも3000俵、受益全区総計で数万俵にのぼる増収が実現、農民たちの努
力が報われたのであった。さらに副産物として、ワカサギ、ニジマス、エビなどの漁業が振興。また釣り人や湖水
探勝者へのボート貸出し、貸馬など観光に関わる新たな産業も芽生え始めた。周囲を緑の山々に見守られ静かに水
をたたえる山の湖水は、その景観にふさわしく「白樺湖」と呼ばれるようになり、蓼科大池の名はいつしか忘れら
れていった。
1949(昭和24)年、国鉄(現JR)茅野駅から一日一往復で諏訪バスが運行を開始した。年々増便が進み
、ダイヤが充実するものの、柏原から湖に至る約8キロの県道は未舗装。「県にあらず危険の“険”道」とまで言
われる悪道であった。路線はあっても年の半分近くは運休せざるを得ないというのが実情だ。湖畔には、旅館やヒ
ュッテなどの宿泊施設が柏原財産区から土地を賃貸する形で一軒、また一軒と開業を始めていたが、その建設工事
もまずは道普請から。当事者にとってまさに開拓の思いだったろう。観光に携わる湖畔住民の道との格闘は、その
後十年以上にわたって続く事になる。1951(昭和27)年に結成された白樺湖観光協会は、その中に道路委員
会を設置、少ない住民挙げて木の株抜き、砂利入れ、除雪、そしてバスの後押しなどに尽力し、輸送力の確保に努めた。
白樺湖は11月には結氷し春の訪れも遅い。「日本で一番長い期間滑走可能なスケート場」としてスケート関
係者の注目を集めるのに、時間はかからなかった。しかも500mの正式リンクが13面もとれる広さである。15
56〜58(昭和31〜33)年頃になると、全国の高校、大学の合宿や世界選手権、オリンピック等の強化選手の
合宿練習リンクとして、湖上は空前のにぎわいに沸く。経済白書に「もはや戦後ではない」と宣言されたのは。、折
しも昭和31年。衣食住が満たされた人々は、スポーツや観光旅行と言った新しい消費に目を向け始めたのである。
そんな時代の風に背を押されるように、一般のスケート客も続々と白樺湖を訪れるようになった。茅野、丸子、小諸
それぞれからのバス路線はさらに拡充。湖岸が平坦で大駐車場を確保できる点も人気の要因だった。観光バスを連ね
て訪れる団体客も増加の一途で、年末年始の最盛期には、大駐車場からあふれた大型バスが路上駐車していたほどで
ある。当然氷上は人影で真っ黒と言う状態。
ついには氷の耐久性も危ぶまれ、諏訪から百人の警官を動員、団体の入場を制限する場面もあった。1960(昭
和35)年頃から全国各地に屋内リンクができ始め、天候の影響を受けやすい天然リンクは急速に衰退する。白樺湖
もその例に漏れず、全盛期からわずか五年で選手一般を問わず殆どのスケート客を失い、リンク一面を細々と残す現
状の姿に変わってしまった。
明かりと言えば石油ランプしかなかった白樺湖に柏原農業協同組合の私設電線が敷かれ、電灯がともったのは
1955(昭和30)年。わずか2本の回線ではあるが、無線電話が通じたのがこれに先立つ54年。さらに195
6(昭和31)年には、堰堤よりにあった茅野市、立科町の境界が現状の位置に移動。そして上水道施設が59(昭
和34年)年。辺境と言われた山中の湖畔は、そこを築き我が子のように育んできた人々の手によって、徐々に、だ
が確実に現在の姿へ移り変わろうとしていた。
さらなる可能性を求めて、スキーリフトの架設工事も始まった。スケートに並ぶ冬のレジャーとして、既にスキー
は流行の兆しを見せている。観光協会はスキー場特別委員会を設置し、各地のスキー場視察や専門家による調査行っ
た結果、白樺湖は当時珍しい“ファミリー対象のスキー場”として極めて有望との結論を得た。財産区と土地貸借の
交渉や陸運局の申請認可も無事済んだが、一番の問題は費用の捻出であった。一千万円の試算のうち半額は諏訪自動
車(株)が出資金として負担してくれることになったものの、残りの金策が想像を絶する難関だった。
諏訪、茅野は長野県の中でも精密工業の盛んな土地柄である。その全盛時代に、産業として未成熟な観光業者が信
頼され融資を受けるのは並大抵のことではなかったのである。「スキー場を南信に」と言う発想自体「正気の沙汰で
はない」とまで言われ、銀行で門前払いされ悔し涙を呑んだこともあったと言う。結局、各旅館各社で分担して35
0万円を集め、残り150万円を索道会社に借りる形で「白樺湖観光開発(株)」を設立、1960(昭和35)年
第一号リフトが完成し、12月1日にスキー場オープンを迎えたのである。スキー場は初年度から大盛況となり、関
係者を大いに喜ばせた。この後、屋外スケート場は急速な衰退を迎えることとなる。結果的とはいえ、実に機を得た
スキー場開発であった。
また、本来の観光シーズンである春、秋の集客のために、新婚旅行や修学旅行学生の受入PRも開始。白樺湖は通
年リゾートとして全国にその名を浸透させていった。ところが湖畔へたどり着くまでにバスに酔う観光客が続出。と
りわけ新婚旅行客の評判はさんざんで、白樺湖の観光はまたしても道路事情に泣かされることとなった。
交通のアクセスは観光地にとっていわば生命線。「町場で1万円のステーキを、槍ヶ岳の山頂で1000円で
販売しても何人食べに行くだろう?」…白樺湖の人々は、まるで孤高の峰で店開きする気分を味わっていたに違いない。
そんな地元の願いに応えるように1964(昭和39)年、蓼科からスズラン峠を経て白樺湖に至るビーナスライ
ンが地域初の舗装道路として開通した。昭和天皇皇后両陛下を迎えての全国植樹祭が八子が峰で開催決定となったの
を受けての開通だった。
ビーナスラインは、四年後に車山、さらに10年余りを費やして美ヶ原まで延びる。
白樺湖の知名度は高まる一方であった。
しかし、急速な発展は、湖水の急速な汚染をも生み出した。増え続ける旅館や観光施設からの排水が湖を汚しア
オコが発生。風景に似合わぬ悪臭を放つまでになってしまったのである。1970(昭和45)年に、地方事務所、
保健所、市、町、行政区、財産区、観光協会の面々による白樺湖浄化対策協議会が結成されたものの、対策は遅々と
して進まない。「座して死を待つわけにはいかん」…危機感に業を煮やした観光協会が1974(昭和49)年、独
断で予算100万円を計上、目的達成まで任期無限の特別委員を選任し、徹底した姿勢で取り組むこととなった。
委員たちは茅野市長とともに県への陳情を重ねるが、何の反応も得られない。下水道と言えば都市下水道の発想し
かなかった当時、白樺湖の人々の陳情に耳を貸す人さえなかった。しかし、観光の発展と湖水の汚染は、実は全国的
な傾向であった。建設省、農林省では「特定環境保全公共下水道」を制度化、10カ所の枠に既に全国から42もの
陳情書類が提出されていることがわかったのである。市長と委員たちが思いあまって直接相談に赴いた地元国会議員
の事務所でのことである。この後、国庫補助を得るための陳情活動がどれほど熱心にまた真剣に行われたかは、43
番目の申請でありながら当初40カ所の枠にくい込め、認可を受け、幹線着工にこぎ着けたことからもうかがえる。
受益者となるここの観光業者、施設保有者の負担金は検討の末、土地3割、建物7割の2階建て方式に決定し、湖
畔の全戸が下水道に加入接続するいう徹底した協力体制を敷いた。下水道受益者の負担金は、欧米でも日本でも、土
地面積割合一本と言うのが通例だった中、建物割合を大きくしたこの独自の負担方式は、後に白樺湖方式と呼ばれ、
理にかなった画期的な方法と評価を受ける。1981(昭和56)年3月、全国に先駆け特定環境保全公共下水道が
第一号の供用開始となった。翌年には湧水を引いて水質浄化噴水が竣工。地域一丸の努力が、美しい湖水を守り抜い
たのである。
下水道供用開始の同年、中央自動車道諏訪ルートが開通、蓼科山、車山、そして美ヶ原へのドライブルートも整
備され、白樺湖は車社会のリゾートとしてなおも発展を続ける。1992(平成4)年には念願の天然温泉発掘にま
せ成功した。
地元の人々の手で地元の産業として成長、発展を続けてきた白樺湖の観光。財力も政治力も乏しかったにもかかわ
らず、決して大手にゆだねず自らの創意と努力で育ててきたという自負が、この地に生きている人々を支えている。
その自負と情熱は次世代にも受け継がれ、全国から愛される高原のリゾート白樺湖を未来にわたって育てていくに違いない。
全文: